あの夏へ還る【第1回】(著/岩井圭也)

2021年8月28日 • お役立ち記事, 剣道小説 • Views: 4487

岩井圭也(いわい・けいや)

北海道大学大学院農学院修了。2018年に『永遠についての証明』で第9回野性時代フロンティア文学賞を受賞し本格的に作家デビュー。今回第2作目となる『夏の陰』を上梓した。小学校5年生から始めた剣道は四段の腕前。

 

 

暑い夏だった。

ただでさえ暑い季節に、面をかぶり、防具を身に付け、一心不乱に竹刀を振った。誰に命じられたわけでもない。そうすることを選んだのは自分だ。

まだ高校三年生だった。何もわかっていなかったくせに、何もかもわかっているような気がしていた。自分に見えるものがすべてで、自分の信じることが正解だと思っていた。とんでもない勘違いだ。

あの夏のことは一生忘れない。

目に映る光景をがらりと変えてしまった、あの夏を。

 

 

一人目 菊池顕介

 

今夜は皆で枕崎の花火大会に行くのだろうか。

開会式の最中、六百人を超える選手たちに囲まれながらそんなことを考えていた。目の前には大会役員がずらりと並び、全日本剣道連盟役員や大会実行委員長が、入れ替わり立ち替わり挨拶をしている。長いスピーチを聞きながら、どこか他人事のような気がしていた。前方で「鹿児島県」というプラカードをもった女の子の頭がテンポよく揺れている。

八月上旬に行われる枕崎の花火大会が、南薩最大規模だということは知っていた。祭の最後には、三尺玉という直径九十センチの花火が上がるとも聞いている。さぞ美しいことだろう。見たことがないから、想像するしかないのが残念だ。何気なく頭上を見上げたが、豪快な花火が上がっているはずもなく、無機質な体育館の天井が広がっているだけだった。

 

一昨日、壮行会と称して、三年生の同期六人で集まり、ファミレスで夕飯を食べた。その最中、副主将の信也が得意げに言った。

「明後日、皆で枕崎行こう。兄貴が車出してくるって言っから」

薩陵高校剣道部では、前日の稽古を限りに、二年生へ指揮権を譲っていた。つまり、俺以外の同期は部活を引退したのだ。インターハイ男子団体に出場できなかった同期たちは、県予選の決勝で流した涙も忘れて、花火大会の予定を話題に盛り上がっていた。

「ナンパすっぞ、ナンパ」

「お前、そげなこと言って絶対やらんからな」

盛り上がっていく輪の中で、不機嫌そうにハンバーグを食べているしかなかった。二日後にひとりで東京へ発つ身としては、遊びの計画を練る会話は楽しいものではない。「顕介を応援する会」だったはずが、いつの間にか単なる小旅行の計画会議になっていた。

「そげな話は俺のおらんところでしてくれ」

「あっ、ごめん」

注意された信也は軽く謝ったが、特に気にしていないようだった。

正式に引退して肩の荷が下りたのだろうか、誰もがいつもより少しはしゃいで見えた。さすがに申し訳ないと思ったのか、別の部員からとりなすように肩を叩かれた。

「とにかく顕介は俺たちの分まで頑張っちくれよ」

「優勝候補なんやけえ」

「よっ、優勝候補」

同期たちは口々に囃した。

優勝候補と言われるのは嫌いだ。しかしがさつな同級生たちは誰もそのことに気づかない。黙って付け合わせのポテトサラダを口に運んだ。

そう呼ばれるようになったのは、雑誌「剣道界」でインターハイ剣道男子個人の優勝候補のひとりとして紹介されてからだった。「剣道界」に写真が載るのは初めてのことではないが、昨年の入賞者たちとともに、ベスト十六止まりだった自分が並べられているのは恥ずかしかった。

二年生で本戦へ進出できただけでも、胸を張っていいことなのかもしれない。鹿児島県下であればトップクラスの選手だと断言することができる。しかし九州、ましてや全国大会となれば話は別だった。信也をはじめ、一緒に夕食を食べている連中は誰も全国大会を経験していないから、「優勝候補」という言葉に重みがない。この心苦しさは理解してもらえないだろう。昨年化け物のような選手と竹刀を交わした経験から、優勝がいかに遠い目標か、身に浸みて理解している。

それに、今年の目標は優勝することではない。

準々決勝まで勝ち進むことだ。

 

開会式が終わると、整列していた選手たちは入場時と同じように隊列を組んで退場する。拍手に送られながら退場した選手たちは、各自荷物のある場所へ戻って防具と道着を脱ぐ。この日は開会式のためだけに道着を着させられたのだ。

廊下で袴を畳んでいると監督がやってきた。ポロシャツの下の突き出た腹を揺らしながら近づいてくる様は、威風堂々と言えなくもない。しかし、この男が見かけよりも小心者だということはよく知っている。

監督は傍らに立つと、さっそく小言を並べた。

「もちっと背筋はしゃんとしろよ。あと歩いてる時はうつむくな。いつも言ってるだろ」

顔も上げなかった。監督はしばらく黙って見ていたが、「先に上行っちょっから」と言い残して立ち去った。制服に着替え、防具をまとめて体育館の入口に行くと、監督はスタンド型の灰皿の横で煙草を吸っていた。

「そこ禁煙だよ」

壁を指さすと、監督は「あ?」と言いつつその方向を見た。壁の貼り紙には「インターハイ期間中は禁煙」と赤いマジックで書かれていた。監督は慌てて煙草を灰皿に押しつける。

「行っか」

何事もなかったかのように、先に歩きはじめた。

父のこういう無神経なところが嫌いだった。

 

「お父さんが監督って、鬱陶しくない?」

クラスメイトからこの手の質問をしょっちゅうされる。鬱陶しいに決まっているが、毎回「どうじゃろね」と半笑いで答える。鬱陶しい、などと言えば、回り回って本人の耳に入るに違いない。そうなれば、余計に鬱陶しい事態になることは容易に想像できた。

菊池守は著名な剣道選手だ。現在錬士七段。普段は社会科教師として薩陵高校に勤務し、放課後には剣道部の監督として部員の指導にあたっている。

薩陵高校の教員たちは授業が上手なことで有名だった。お世辞にも優秀な成績とは言えない剣道部員たちも「面白いから」という理由で授業は真面目に聞いていた。生徒の間では、「薩陵高校の採用試験では模擬授業を重視するため、授業がつまらない受験者はそこではねられる」という噂も流れている。

そんな環境にあって、菊池守の授業は例外的につまらなかった。あまりの退屈さに、父だけは採用試験で模擬授業をやっていないという噂まで流れていた。その噂によれば、父は剣道部監督として採用されたために授業の腕はどうでもよかったらしい。もっともらしい話だ。

剣道家としての菊池守は、数々の優れた戦績を残している。高校時代に国体で先鋒を務めて全国優勝。大学では全国個人三位入賞。教師になってからは、警察官を破って全日本選手権に三度出場した。監督としては教え子たちを二、三年に一度のペースで全国大会に出場させている。薩陵高校が強豪校として全国に認識されるようになったのは、父が赴任してからのことだ。その点は少しだけ誇りに思っている。

高校生になってから聞いた話によると、母のお腹にいた頃から、父は「将来は八段になれよ」と毎日話しかけていたらしい。誕生後、最初に提案した名前は「剣介」だったが、「子どもに重荷を背負わせるような名前はやめて」という母の強硬な反対にあい、やむなく字面だけ変えて「顕介」になったという。こういう話を聞くと顔をしかめるしかない。

剣道をやるかやらないかを選択する自由はなく、気づいた時にはもう竹刀を握っていた。記憶にはないが、最初に素振りをしたのは三歳の誕生日だったらしい。

母はその時のことをよく覚えていて、「顕介がちょっと竹刀振っただけで、お父さん、筋がええなとか言って大喜びで」という話を何度か聞いている。

二歳下の妹にも剣道をやらせようとしたが、妹は竹刀を持たせるたびに泣きわめき、投げ飛ばした。何度か試みたらしいが、毎回強烈な抵抗にあったため、ついに断念せざるを得なかった。

One Response to あの夏へ還る【第1回】(著/岩井圭也)

  1. 新地浩三 元鹿児島大学、玉龍高校剣道部監督 より:

    鹿児島を舞台にした剣道小説、私の高校時代を思い出すことでした。3年生のとき鹿児島で初めての国体が開催されるとあって鹿児島に全国から遠征に来る学校がかなりあったことを覚えています。私も国体候補選手として鍛えられました。結局県大会2位で国体出場はなりませんでしたが出場した鹿児島商工(樟南)が日本一になりいい思い出になっています。剣道人生を楽しむ子どもたちが増えることを期待しています。