あの夏へ還る【第11回】(著/岩井圭也)

2021年11月6日 • お役立ち記事, 剣道小説 • Views: 711

朝起きた時から、今日はいつも通りにやろうと決めていた。鍔迫り合い以外ではひたすら守りを堅くして、引き技で勝負する。渡部も、米倉先生も、勝つことを何より望んでいる。この期に及んで正剣なんて、メリットが一つもない。

初日とは打って変わって、アップ会場は人の姿がまばらだった。二日前には九十六人いた男子個人出場者が、今は八人しか残っていない。その八人の中に自分が含まれていることを、ふと忘れそうになる。

アップ会場の片隅で、カメラのファインダーを覗きこんでいる男がいた。位置を変え、角度を変え、稽古の様子をカメラに収めている。きっと熱心な剣道ファンだろう。雑誌記者や新聞記者が、わざわざ練習風景まで撮影することはあまりない。

剣道を見るのが好きな人は、剣道経験者ばかりだ。未経験だけど剣道を見るのが好きだという人は珍しい。少なくともそんな人に会ったことがない。

ただし、彼ら剣道ファンはもう高校生ではない。わざわざ会場に足を運んで稽古の様子まで撮影しているのは、もう自分がその夏へ戻ることができないからだ。

今ファインダーを通して稽古風景を見ている彼は、当然、もうインターハイに出場することはできない。だからこそ、余計に高校生たちの夏が眩しく見えるのだろう。

男はカメラのレンズをこちらへ向けた。まだ面を被る前で、竹刀を持って呆然とレンズを見つめていた。間抜けな顔を撮られないよう慌てて顔を引き締める。シャッターの切られる音が、耳に届いたような気がした。

「そろそろはじめようか」

ストレッチを終えた渡部は、もう手拭いを頭に巻いていた。カメラのレンズを気にしつつ面を被る。渡部もカメラの存在に気づいたらしく、わざとらしく面紐を結び直している。

カメラが違う方角を向いた後、ひとつ咳をした。

「集中だ、集中」

たったひとつのカメラを意識している場合ではない。優勝すれば、何十ものカメラに囲まれるのだ。

 

女子個人準々決勝が終わると、男子個人準々決勝になる。面を被り、コートの横で待機していた。藤波も同じようにコート横に立っている。藤波の視線は観客席の方に注がれていた。恋人でも観に来ているのだろうか。

視線を感じて、ふと自分も観客席を見回した。思い出したのは父のことだった。もしかしたら、父が観戦に来てくれているかもしれない。そう思ったが、熱い視線を送っているのは仕事を抜けだしてきた父ではなかった。手すりを握りしめ、益田先生が思いつめた顔でこちらを見ている。身体の向きを変えて、その視線を無視した。

竹刀を中段に構えてみた。しっくりくる感触がある。調子が悪い時はどう構えても身体のどこかに違和感を覚えるのだが、それがこの日はなかった。ごく自然に、しかも充実した構えができている。今なら例え中心を攻め合っても、藤波に勝つことができそうだ。そんな考えがよぎった。

女子の試合が終わった。審判が交代し、男子個人の選手がコートへ促される。深く息を吐き、臍の下に力を込めた。

開始線に蹲踞をして竹刀を向けると、その先には藤波の怜悧な視線があった。綺麗な二重まぶたの下から見つめる瞳は、氷のように冷たい。

主審の合図とともに、ふたりは立ち上がった。

藤波は超音波のように高い声で叫んだ。落ちついてそれに応じる。最初にビデオで聞いた時は驚いたが、今ではこの特徴的な掛け声には慣れていた。

間合いを自分から詰め、先手先手で打っていった。基本的に藤波はスロースターターである。藤波が負けるパターンは、試合の早い段階で相手に一本を取られ、そのまま逃げ切られるのが最も多い。狙っていたのは逃げ切りでの勝利だった。もちろん、その一本を取るのがいかに大変かということも承知している。

面を打って体を寄せようとすると、藤波はそれを嫌がって後ろへ下がった。藤波より速く摺り足で接近し、鍔迫り合いに持ち込む。摺り足の速さなら誰にも負けない自信があった。稽古で足の裏が擦り切れた回数は、十や二十ではきかない。

引き技の機会はそんなに多くないと直感した。藤波は明らかに鍔迫り合いを嫌がっている。いかに自分の摺り足が速いとは言え、藤波ほどの手練れが何度も鍔迫り合いを許すとも思えない。少ないチャンスは大事にしなければならない。

少しずつ後ずさりながら、藤波の右胴めがけて竹刀を振り下ろした。しかし藤波が右肘で強引にこれを防ぎ、竹刀が胴に当たる前に止められた。代わりに藤波の面が空いた。竹刀を急転換させ、藤波に引き面を放つ。引き面が決まるかと思ったが、藤波は左腕一本で素早く竹刀を掲げて面を防いだ。

休む暇は与えない。今度は小手を打ったが、浅い小手を打ったことで逆に藤波が体勢を立て直す隙を与えてしまった。正眼の構えに戻った藤波は、猛獣のように跳びかかってきた。あわやというところで藤波の小手面を凌いだ。

藤波は、圧倒的に強かった。

岩田やそれまでの相手とは、完全に異質だった。予想もしないところから不思議な打突が飛んでくる。そしてその打突は、ことごとく正確に面を、小手を、胴を狙ってきた。先手を心がけて引き技で勝負をするつもりが、ペースに乗せられているのはこちらの方だった。

ビデオで見ている時には、様々な作戦を考えていた。藤波の癖は剣先が下がりがちなことだ。だから小手や胴よりも面で勝負に出た方がいい。そのためには出小手や払い小手で十分に下からの攻撃を意識させた後、必殺の引き面で仕留める。

しかし実際に対戦してみると、そんなことを考える余裕はなかった。容赦なく降り注ぐ藤波の打突を、ただ我を忘れて避け続けた。どうして鍔迫り合いができない。どうしてこんなに流れを持っていかれるんだ。どうして……

「やめ」

主審の掛け声が上がった。開始線に戻ると、主審と副審ふたりはコートの中央に集まり、小声で二、三言話しあった。その時初めて、副審のひとりが見覚えのある眼鏡をかけていることに気づいた。四回戦で引き技に旗を上げなかった副審だった。俺に良い心証を持っていないことは間違いない。今日も当たるとは、ついていない。三人の審判が解散した後、主審がこちらに向き直った。

「時間空費。反則一回」

藤波の背後で、拍手が沸き起こった。常陽の応援団だ。

拍手を聞きながら、なぜか豪雨の夜を連想した。鳴り響く拍手の音は、無数の雨滴が屋根に降り注ぐ音に似ている。自分の頭上にだけ雨が降っているような気がした。相手チームの拍手でこれほど暗い気分になったのは初めてだった。

「はじめ」

開始と同時に間合いを詰めてきた藤波に、こちらからも接近した。鍔迫り合いに持ち込める。そう思った瞬間、藤波の身体がふっと離れた。

したたかに面を打ち込まれた。

「メエエエエエン」

藤波の掛け声がひと際高くなる。審判は即座に旗を上げた。

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