あの夏へ還る【第12回】(著/岩井圭也)

2021年11月13日 • お役立ち記事, 剣道小説 • Views: 787

半ば放心状態で開始線まで戻った。藤波から一本を取る場面を、もう思い描くことができなかった。どうやっても、こんな化け物に勝てる訳がない。そう思うことで自分を慰めようとした。試合前に構えがしっくりきたことなど、記憶の彼方に忘れ去っていた。

ここまでよくやった。中学まで地区大会止まりだった選手が、高校で全国ベスト8まで進んだんだ。ちっちゃい頃から剣道やってた奴だって、ここまではそう簡単には来れない。大学だって剣道推薦で行けるだろう。就職活動のネタにも困らない。だって高校三年間、死ぬほど頑張ったから。

もう諦めよう。

「二本目」

そう思いながらも、主審の掛け声がすれば中段に構えていた。絶対に勝てないと思いながら、全力で面に跳び、藤波の打突をいなした。面に来れば胴を返し、小手を打たれれば必死でそれを払った。

四分は、あっという間に過ぎようとしている。四分間って、こんなに短かったかな。そう思いながら、再び中段に構えた。もう三所隠しも引き技も忘れ、がむしゃらに竹刀を振りまわしていた。

竹刀を真っすぐ構えたまま半歩前進した。竹刀が交錯した時、藤波の竹刀がほんの少しだけ持ち上がった。急に一連の出来事がスローモーションに見えはじめる。藤波の竹刀はゆっくりゆっくりと上がっていく。あれ、これって……

出小手打てるんじゃないか?

何気なく竹刀を持ち上げ、ゆっくりと、藤波の右小手を物打ちの部分で叩いた。竹刀は小手を確実に捉え、ぱこん、という音がした。

「小手あり」

主審の宣告と同時に、時間の流れが元に戻った。藤波は凄まじい速さで横をすり抜けていくが、出小手が決まったことを知って踵を返した。背後から「おおっ」という野太い掛け声が上がり、常陽の応援団からは「ああっ」という落胆の声が上がった。

またもや呆然としながら開始線に立った。初めての経験だった。すべてがゆっくりと流れ、打つべき部位が自然とわかる。何より、あんなに綺麗に出小手が決まったのが初めてのことだった。眼鏡の副審もこちらに旗を上げている。

正剣。試合前は馬鹿にしていた言葉が脳裏に浮かんだ。

今、互いに一本ずつ持っている。あと一本取れれば逆転勝ちだ。心に火が灯された。勝ちたい。あと一本、どうしても取りたい。

藤波に勝ちたければ、もう一度、さっきの出小手のような打突をするしかない。中段で正々堂々と攻め合い、的確に相手を打つ。そうだ、正剣だ。正剣で行くしかない。

「勝負」

再開すると同時に四分が経過し、やめをかけられた。さっきの出小手が決まったのは、本当に試合終了直前だったらしい。

再び主審の掛け声が上がって延長戦に入る。どちらかが一本取るまで終わらない、無制限のサドンデス。

 

構えたままじりじりと近寄り、徐々に藤波の竹刀を圧迫した。上から相手を圧倒するように。数ミリずつ間合いを詰めた。爪先でにじり寄っているだけなのに、額にはびっしりと汗が浮いている。

味わったことのない緊張感だった。三所隠しをしていた時には感じられなかった緊張。初めて本物の剣道をしている気分だった。血管の隅々にまで意識が行き渡り、どんな些細な変化も見逃すまいと全身が緊張している。

藤波も数ミリ接近し、剣先を少しだけ上げた。それに反応して少し強く、藤波の竹刀を抑えつける。藤波はそれを見越していたように竹刀をくるりと回し、逆にこちらの剣先を抑えた。

剣先での応酬がこんなに楽しいなんて知らなかった。密かに面の内側で笑っていた。笑いをこらえることができないのだ。

藤波がふっと小手に跳んだ。それを摺り上げ、面に跳ぶ。面打ちは首を曲げてかわされ、体当たりで弾き飛ばされた。少し後ずさったが何とか踏ん張り、再び正眼に構える。

今すぐ笑いだしたかった。剣道はこんなに楽しいのか。身体が、血が、剣道をすることの歓びに震えていた。まだ間に合う。これからは正剣を目指そう。本当の剣道をはじめよう。

今度は自分が間合いを詰めた。藤波は落ちついて半歩下がり様子を見る。更に接近すると、藤波は竹刀を下から払い、小手に跳ぼうとした。

藤波の動作はあまりにも速かった。だから、無意識のうちに三所隠しをとる自分の身体を制御することができなかった。気付いた時には竹刀で自分の面と、小手と、右胴を守っていた。しまった、と思った時にはもう遅い。

三所隠し。それは面と小手と右胴を守る構え。だが、一つだけがら空きの箇所がある。藤波幸太がそれを見逃すはずがない。

結局、俺はこういう剣道をやってきたんだなあ。溜め息を吐くと同時に、藤波の竹刀ががら空きになった俺の「左胴」を打ち抜いた。小手はフェイクだったのだ。やはり最後まで、三所隠しは捨てられなかった。

左胴から爆発したような音がして、審判が三人旗を上げた。

「胴あり」

常陽の応援団が、雄叫びのような声を上げた。米倉先生や渡部は何も言わないが、落胆していることだろう。しかし実際、そんなことはどうでもよかった。

再び蹲踞した時に見た藤波の眼は、開始前の冷たさではなく、どろどろの溶岩のように赤く燃えていた。

 

コートを去った後も、しばらく観客席はどよめいていた。ひとりで面を外していると、自分の存在に気づいていないらしい観客たちの会話が聞こえてきた。

「左胴って普通あんな凄い音するか?」

「藤波だからだろ。あんな胴打たれたら文句のつけようもないわな」

渡部が近付いてくる。面を外すと、しゃがみこんで話しかけてきた。

「お疲れさま」

「やられたよ。三所隠しじゃダメだった」

渡部はそれに答えず、「藤波の胴は綺麗だった」と言った。

「機会も、気勢も、太刀筋も、残心も、どれをとっても綺麗だった。しかしその胴を打つことができたのは、お前が藤波相手に互角以上の戦いをしたからだ。だからこそ、藤波は捨て身で胴を打つことができた」

渡部は「向こうで待ってる」と言い残して立ち去った。泣きそうだったが、我慢しなければならない。米倉先生への挨拶が残っている。道着から制服に着替えて、先生を探した。

男子個人戦が終わった体育館では、女子団体戦がはじまろうとしていた。コート上に道着をまとった少女剣士たちが集まっている。米倉先生は試合風景を見つめていた。その隣に並ぶ。他人が見れば、もしかしたら父親と息子に見えるかもしれない。米倉先生はコートに視線を向けたまま話しかけてきた。

「閉会式なら出なくてもいいぞ」

「いえ、最後までいます」

同じように前を向いたまま答えた。「好きにすればいい」といった米倉先生は、何度か咳払いをした。

「大学に行っても剣道続けるのか」

米倉先生がどうしてこのタイミングでそんなことを尋ねたのかはわからない。しかし戸惑いはなかった。

「続けます。今度こそ、自分の剣道を見つけます」

「見つかるといいな」

「見つけます」

さっきの試合で何かをつかんだ自信があった。米倉先生が呟いた。

「俺は後悔してないよ」

いちいち詳細を尋ねる必要はなかった。

米倉先生の指導は、益田先生からすれば間違っていたのかもしれない。でも教師がいちいち自分の指導に反省していては、生徒に信念を伝えることはできない。結局は米倉先生のことを尊敬しているのが、何だか悔しかった。

「元気でな」

「はい」

米倉先生に向かって頭を下げた。自分ができる精一杯の美しい礼を見せたかった。

「三年間、お世話になりました」

床に顔を向けたままそう言った。わずかに語尾が震えた。

「お疲れさん」

顔を上げて、目尻に溜まった涙を拭いた。振り返り、防具を担いで会場を出た。もうインターハイに出場することはできない。しかし剣道人生が終わったわけじゃない。正しい剣道を一から学ぶことも、なかなか面白そうだ。

渡部は廊下のベンチでパンフレットを眺めていた。俺に剣道を教えてくれ。渡部にそう告げようと決めて、小走りで駆け寄った。

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