あの夏へ還る【第10回】(著/岩井圭也)

2021年10月30日 • お役立ち記事, 剣道小説 • Views: 959

準々決勝の相手は、福岡の藤波幸太だった。

藤波は中学生の頃から、天才剣道少年として有名だった。ルックスの秀麗さも相まって、現在はどの会場でも藤波の女性ファンを見かける。女性誌でも度々インタビューを受けているらしい。テレビや雑誌でしかその姿を見たことがない、遠い存在だ。あれだけ顔が良ければ、さぞかし美人と付き合うことができるだろう。想像するだけで苛立つ。

彼女がいたことは一度もない。剣道は強くなったし、顔だってそんなに悪くないと自分では思っている。母方の伯母など、会うたびに「大ちゃんはほんと顔が整ってるわあ」と誉めてくれる。誉めてくれるのが伯母ひとりしかいない、というのが残念ではあったが。

これまでなびいてくれる女の子は、ひとりもいなかった。同級生や後輩の男子からは我ながら人望があると思うが、女子はさっぱり寄りつかない。以前、希少な女友達に「俺って女子からどう思われてんの?」と思いきって訊いてみたことがあった。マウンテンゴリラに似たその女子は、じろりと俺をにらんだ。

「怖い」

お前が言うな。その言葉を呑み込み、「そうかあ」とだけ答えた。

藤波には「無冠の帝王」という有名な二つ名がつけられている。今まで全国大会の個人戦で三度も決勝に進みながら、いずれも敗退し、準優勝に終わっているせいだ。昨年のインターハイ個人では四度目の決勝目前だったが、上級生に敗れて三位に終わった。

優勝できないと言っても、藤波は常に世代の先頭を担ってきている。昨年石坂が優勝するまでは世代最強と言われていたし、実際、九州ではほぼ無敵と言っていい。

今大会でも準々決勝までの四試合で一本も取られていない。今のところファンが満足する試合内容だった。

 

翌日は、男子団体戦の予選リーグと女子個人戦のみ行われる。試合観戦のため、渡部とふたりで試合会場を訪れた。観客席には制服姿の観戦者が多い。

この会場に来る学生は三種類に分類できる。翌日の試合に出場する者、最初から応援に来た者、そして前日の試合で敗れた者。

「あっ、あれ」

思わず声を上げると、渡部もそちらを振り向いた。少し離れたところで歳の離れたふたりの男が観戦している。

「菊池親子じゃん」

鹿児島の菊池守、菊池顕介父子は、剣道界では「親子鷹」として有名だった。息子の顕介は、九州では藤波に次ぐ実力者のはずだ。

何気なく渡部に尋ねてみた。

「父親が監督って、どう思う?」

「鬱陶しいだろうなあ。学校でも家でも会うんだろ? 俺なんか家で会うのも嫌なのに」

渡部は大げさに両手を上げ、降参のポーズをしてみせた。

「だよな」

軽く相槌を打つ。しかし一方では、積極的に剣道に関わってくれる父親が羨ましくもあった。

昔から、父はふたりの息子たちの将来に無関心だった。次男が剣道の推薦で北辰に進むと言った時も、兄が大学を辞めてフリーターになった時も、心配したのは母親だけだった。父は関心がないらしく、金は出すからあとは自分で決めてくれ、という考えがありありと伺えた。

前日の練習中に、混雑した体育館で菊池顕介にぶつかったことを覚えている。自分の膝と顕介の足首がぶつけり、相手が転倒した時だ。その時、面の中からこちらを睨みつけていた菊池守の眼光には、敵意が剥き出しになっていた。

それは雛を守るため、外敵に立ち向かう親鳥の目だった。自分の父親はあんな目をしてくれたことがあっただろうか。並んで観戦する菊池父子を眺めながら、そんなことを考えていた。

 

この日会場に来た最大の目的は、常陽高校の試合を観戦することだった。藤波幸太が大将を務めるチームだ。常陽高校は激戦区福岡にありながら、全国大会の常連校である。常陽高校を全国大会常連校に育て上げたのは平沢という監督だ。

予選リーグは三校総当たりで行われる。常陽高校の最初の相手は青森の高校だった。先鋒と次鋒は勝利し、中堅と副将が引き分け、大将である藤波の出番より先に常陽高校の勝利が決まってしまった。藤波は四分間の試合で、一度も自分から打突をしなかった。

二校目は奈良の高校だったが、常陽の先鋒、次鋒、中堅が勝利したことで、この試合でも藤波は勝負をする必要がなかった。大方の予想通り、常陽高校は予選リーグで圧勝を収め、藤波は個人戦に向けて体力を温存することができた。

「強いな」

渡部の呟きに頷く。

「前三人が強すぎる」

「結局、藤波の観察はほとんどできなかったな」

「まあ、しょうがない」

元々、今日の試合はあまり重視していなかった。既に藤波の試合は札幌で嫌というほどビデオ観戦し、剣風を研究してきている。今日の団体戦では藤波の癖や攻め方が変わっていないかどうかを確認できればよかった。

藤波に限らず、トーナメントで当たる可能性のある選手は、手に入る限りの映像をかき集め、ひとつ残らずそれを観察して弱点や攻め方を考えている。試合直前には根を詰めすぎて、一緒に見ていた渡部が「もういいだろ」と音を上げるほどだった。自分が優勝する姿をイメージできるまで、ひとりで何度でも映像を見た。勝てなければ何の意味もない。今全国大会の舞台に立っているのも、その意志があるからだ。

「湊くん、ちょっといいかな」

観客席で女子個人戦を見るともなく見ていると、誰かに声をかけられた。振り向くと、そこには益田先生の思いつめた顔があった。渡部はつい数分前に「別の場所で観戦してくる」と言い残して姿を消していた。益田先生は前方にまわりこみ、渡部の座っていた座席に腰をおろした。

「お願いしたいことがあるんだが」

「三所隠しのことですか」

益田先生の顔を見ずに尋ねた。

「そうだ。明日の試合では正しい剣道をしてほしい。今、湊くんは北海道のスターなんだ。そのことを自覚すべきだと思わないか」

なんて身勝手なことを言う人だろう。白けた口調で答えた。

「正しい剣道をして負けたら、益田先生が責任とってくれるんですか」

目の前では背の高い女子選手が相手から小手面を奪っていた。打突は力強く、速い。並の男子なら一分ともたないだろう。

「勝負云々以前の問題だ」

「剣道の目的は、勝つことでしょう。綺麗な剣道をやっても負けたら何の意味もないですよ。そうじゃないんですか?」

「勝つことを目指すからこそ、綺麗な剣道をしなくちゃいけない」

これ以上水かけ論はしたくなかった。カバンを持ち上げて席を立つ。

「理解できません」

「おい、どこに行くんだ」

「悔しかったら、俺と同じくらいの選手を育ててから、また来てください」

ちょっと格好つけすぎたかな。そう思いつつ、廊下へ歩み去った。

 

渡部とホテル内の食堂で夕食をとった。野菜炒め定食を注文すると、渡部が「僕もそれで」と言った。

カウンターで食事をとっていると、背後を若い男の一団が通っていった。口うるさく喋るその声音は、自分たちと同年代くらいに思える。気になって振り向くと、彼らのポロシャツには、背中に大きく「常陽」と印刷されていた。

常陽の団体は、少し離れたテーブル席に腰を下ろした。店員への注文を口々に済ませると、雑談がはじまる。無意識にその会話に耳を澄ませた。

「幸太、明日の準々決勝の相手、誰だっけ?」

誰かがよく通る声で言った。

「北海道の湊」

藤波の答えに、幾人かが反応した。

「誰だよ、それ。試合見た奴いる?」

「俺見たよ。なんか汚い剣道だった」

「岩田に勝った奴でしょ? あいつ引き技しか打たないよ。普通にやれば俺でも負けないから」

「部内選考で負けた奴が言うなよ」

常陽のテーブルで笑い声が起こった。湧き上がる怒りを、唇を噛んで我慢する。

食事を終えると渡部はすぐに席を立った。

「あいつら、わざとだよ」

部屋へ戻る途中、渡部は静かに言った。

「大吾のことが怖いから、ああやって先制してるんだ。本当に大したことないと思っていれば、あんなことはしない」

エレベーターを降りて、渡部と別れた。渡部を連れて来て本当に良かったと思った。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です