あの夏へ還る【第18回】(著/岩井圭也)

2021年12月25日 • お役立ち記事, 剣道小説 • Views: 1397

準決勝の相手は浦辺という広島の選手だった。目立った戦績はなく、初めて聞く名前だ。全国大会の準決勝で故郷の選手と戦うことには、少し運命めいたものを感じる。広島に残っていれば、浦辺の代わりに広島代表になったのは自分だったかもしれない。もうひとりの自分と戦うような気分だった。

浦辺はあまり上背のない選手だった。近間でうるさい剣道をするタイプだろうか。迂闊なことにこの三日間、浦辺という選手を気にも留めていなかった。そのため事前情報は何もない。妙法の部員たちも同様らしく、浦辺がどんな剣道をするのか知る者はいなかった。

まあいい。数秒やればわかる。

面紐をきつく締めて立ち上がった。テーピングで固めた右足でどこまでやれるかはわからないが、とにかく剣道をするしかない。

もう一つのコートでは、藤波幸太が試合準備をしていた。相手は東京代表の有名な選手だ。入念にストレッチをしている。彼も開催地の選手として、何としても優勝を飾りたいだろう。

初日に九十六人いた選手は、四人ぽっちになっていた。広い会場に四人だけがぽつんと立っている。この中の誰かが優勝者になる。審判がコートに立つと同時に歩を進めた。抜刀し、蹲踞の姿勢をとる。浦辺の表情は落ちついていた。作り物のように表情が動かない。

「はじめ」

主審の掛け声と同時に立ち上がった浦辺は、竹刀を振りかぶり上段をとった。

「上段か」

妙法の誰かの嘆きが聞こえた。国浜だろうか。今までこの選手が上段をとることすら知らなかったという事実が、たまらなく悔しかったらしい。

それとは対照的に、実際に対峙する自分は冷静だった。剣先を浦辺の左小手に向け、じりじりと右方向へ回る。浦辺の左小手を打つためには、右側へ移動する必要がある。

前触れなく、浦辺が面を打ち下ろした。打突は速い。しかも動作の起こりがなく、読めない。すんでのところで首を曲げてかわした。離れた後、同じようなテンポで再び面を打ってくる。単調なリズムで打っているはずなのに、またも浦辺の竹刀は面をかすめた。摺り足で急接近し、何とか打突をかわす。

鍔迫り合いをしながら、浦辺の面に心底感心していた。上段からの面は振りかぶる必要がない分、中段より速く打つことができる。浦辺の上段からの面はとりわけ速かった。普通の選手では身動きもとれず打たれてしまうだろう。もしかしたら今まで受けたどの打突よりも速いかもしれない……

開始からしばらくは激しく打ち合った。小手に跳びこんだ竹刀を浦辺は打ち落とし、立て続けに面を打ってくる。再び急接近してそれをやりすごし、鍔迫り合いに持ち込んだ。じりじりと距離をとり、浦辺が再び上段をとろうとした瞬間、引き小手に跳ぶ。旗は上がらなかったが、打突は浦辺の小手を捉えていた。そのまま遠間まで離れ、再び間合いを計る。

摺り足をしながら足首の痛みを堪えていた。怪我をする前に比べて、打突の勢いは明らかに落ちている。引き小手だって、足の状態が万全ならきっと一本になっていたはずだ。

浦辺が再び唐突な面を打った。打突の速さは尋常ではないが、その単調なテンポはつかみつつある。今度は竹刀でしっかりと面を受け止め、返し面を放った。しかし竹刀は浦辺の面金に当たり、一本にはならない。打突するたび、体力が少しずつ削られていくような気がした。

いきなり、浦辺が右手を挙げた。すぐに主審のやめがかかる。浦辺が自分の後頭部を示した。面の下に巻いた手拭いがずれたらしい。手拭いを直すため、いったん試合は中断になった。元の位置に戻り、蹲踞の姿勢で待つ。足首が痛いせいで正座はできない。

待っている間、もうひとつのコートに視線を向けた。藤波たちも激しく打ち合っているが、双方決め手に欠けているらしい。記録用のボードにはどちらの一本も記されていない。

まだ半分も時間が経っていないのに、全身がだるかった。もう三十分も動き続けたように疲れている。長引くと不利だ。残り時間はあと二分程度か。

試合が再開した後も、浦辺は単調な面を繰り返した。応じて一本を決めたいが、踏み込むたびに痛みが刺す。痛みを我慢するせいで額に妙な汗をかいている。剣道サイボーグにも痛覚はあるんだな、と頭のどこかでくだらないことを考えた。試合のペースが、徐々に浦辺に移っている。

個人戦に引き分けはない。どちらかが一本を取るまで、試合は続けられる。団体戦ならば、仲間が勝っていれば引き分けでもいい。しかし個人戦では自分が一本を取る以外に勝利する方法はない。甘えにも似た絶望に、じわじわと苦しめられていた。

再び、浦辺が面を放った。何度目かの面を受け止めるため、反射で竹刀を振り上げる。その瞬間、浦辺の竹刀が方向を変え、右手首に襲いかかってきた。今までの単調な面は、この小手を打つための布石だったのだ。

咄嗟に竹刀から右手を放した。左手一本で竹刀を持ち、間一髪で浦辺の小手を避けた。しかし勢い余った浦辺の竹刀が左小手を内側から叩き、手首から指先へ、電流のような痺れが走った。左手から竹刀が落ちる。

やめがかかり、浦辺は開始線へ戻っていく。竹刀を拾い上げてそれに続く。竹刀落とし、反則一回。主審はこちらに向かってそう宣告した。頭を下げて構えなおす。これでもう、無茶なことはできない。浦辺の眼には余裕も奢りもなく、ただ平静な視線でこちらを見ていた。

相手優位はその後も変わらなかった。さっきの小手が頭をよぎるせいで、面に対しても気を抜けない。既に反則を一度とられているので、もう一度場外や竹刀落としをすれば浦辺の一本になる。一本を献上するような真似だけは絶対にしたくなかった。おまけに右足首の痛みも増している。

こんな時、緒方先生ならどうするだろう。

中学生の時ならそう考えたかもしれない。しかし俺はもう、自分の剣道をする時期にきている。コートの中に入れるのは自分と浦辺だけだ。緒方先生は一緒に戦ってはくれない。勝利への道筋を考えるのは、選手自身の仕事だ。

もう伏線を張る余裕は体力的にも時間的にもない。

急襲。それが結論だった。

浦辺が面に跳んだ。間もなく試合開始から四分が経つというのに、浦辺の打突速度は一向に衰えない。身体をねじって小手を打ち、浦辺の竹刀を正中線から外した。浦辺の竹刀が面を襲うが、きわどいところで旗は上がらない。鍔迫り合いでは絶対に自分からは下がらない。相手が下がった後が、残された最後のチャンスだからだ。

浦辺は引き面を打ったが、それは悠々とかわすことができた。引き技はあまり得意ではないらしい。面を打った浦辺は後ろへさがっていく。痛む右足首を懸命に動かし、追いかけた。思っていたよりも少し距離が空いてしまったが、仕方がない。浦辺が後退をやめ、再び竹刀を上段に構えた。その刹那。

右足を踏み出すと同時に、左手一本で竹刀を突き出した。剣先は一直線に浦辺の喉元へ向かい、正確に突き刺さった。竹刀がぐにゃりと曲がり、アーチ状にたわむ光景が瞬間的に見えた。

公式戦では一度も打ったことのない、片手突きだった。

「突きあり」

旗は三本とも上がっていた。計時係の女子が、上げかけた黄色い旗を慌てて降ろしている。突きが決まったのは、試合時間の四分が経ったのと同時だった。

何とか間に合った。

再び竹刀を構えたが、浦辺が打突をする前に試合終了の電子ベルが鳴った。やめの合図と同時に、浦辺は上段を解いて開始線へ戻っていく。敗者がよくやるように、肩を落とすことも、天を仰ぐこともしなかった。最後まで、その眼には表情の揺れが表れなかった。

コートを出ると、観客席から万雷の拍手を向けられていることに気づいた。緒方先生が畳から立ち上がった時、思わず言い訳を口にしていた。

「諸手で突くつもりだったんです」

緒方先生は、確実性に劣る、という理由から片手突きを好まない。

「でも距離が空いていたので、つい身体が」

「構わんよ」

拍手の中でも、先生の声ははっきりと耳に届いた。

「自分の剣道をすればいい」

すぐに後輩たちが駆け寄って介抱しようとしたが、再びそれを制した。よってたかって介抱されている姿を人前に晒したくない。右足首は痛んだが、我慢して正座をする。防具を外す時にみっともない座り方はしたくなかった。

面を外すと汗みどろの顔が外気に触れた。正面の少し遠くから、こちらを見ている者がいる。焦点はひとつの像に結ばれ、藤波幸太の姿が浮かび上がった。藤波は仁王立ちで見ている。結果は聞かずともわかった。無表情で互いの顔を見て、試合前の儀式は終わる。藤波はすぐに立ち去った。

決勝は藤波幸太。待ち望んでいた時が、ようやく来たのだ。

 

団体戦準決勝も欠場した。残り一試合に全力を注げ。緒方先生はそう言った。試合を観たかったが、足首に頑丈なテーピングをすることが先決だった。人気のない廊下のベンチに座って足首を固定していると、目の前を見覚えのある人影が通った。浦辺だった。

トイレにでも行くのだろうか。浦辺の眼には泣いた跡もなく、悔しさも感じられなかった。会釈して前を通り過ぎようとする。

「浦辺くん」

呼びかけると、人影は振り向いた。

「俺の地元広島なんだけど」

浦辺はこちらの眼をじっと見ている。試合の時と同じだ。

「今度、一緒に稽古しようや。連絡する」

一瞬の後、浦辺の顔に初めて表情が浮かんだ。

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