プロフィール
阿部 晶人●あべ あきひと
クリエイティブ・ディレクター。全日本剣道連盟 情報小委員会委員長。日本剣道振興協会代表理事。
電通、Ogilvyなどを経て面白法人カヤックに在籍。
第16回世界剣道選手権大会の実行委員として、誘致ビデオ、井上雄彦氏によるポスターやホームページ、グッズなど幅広いコミュニケーションアイデアを立案。全剣連の剣道普及キャラクター“ぶしし”の発案にも携わる。
休日は鎌倉で剣道とクラリネット。著作「Webキャンペーンのしかけ方」。
剣道を始めたきっかけ
—いつから剣道を始められたのですか?
阿部「小学校一年生です。始めたきっかけは結構おもしろいですよ。
『姉や妹はスカートを履いているのに、なんで僕は履けないんだ!』と親に言ったことがきっかけだそうです。そして、スカートを存分に履ける剣道をやることになりました。正直そんなこと言った覚えはないんですけどね(笑)」
—のっけからおもしろい(笑)。阿部さん、ご出身はどちらなのですか?
阿部「大阪の阿倍野区というところです」
—その地域は剣道が盛んだったんですか?
阿部「そんなに盛んでもなかったです。最初は剣道が嫌でしたね。チョウチョ結びができなかったので。
で、やっとそれなりに結べるようになって、小学校高学年で入賞できてから、モチベーションがあがってきました。親は入賞するなんて思っていなかったみたいで、過剰に喜んでいました」
ゆるく、剣道を続ける
阿部「小学校高学年からクラリネットも始めていたので、高校ではブラスバンド部に入部しました。うちの家は音楽一家なんですよ。姉はオランダで指揮者をしています。そんな環境だったので、剣道だけにのめり込むという心境にはなかなかなりづらかったのかもしれません」
—剣道は続けられなかったのですか?
阿部「道場で続けていました。道場では剣道を通して、いろいろなことを学びました。先生の一人が、彫刻家だったので彫刻にもふれることができました」
—剣道を通して、剣道以外のことを学んでいらしたのですね。
阿部「剣道具もすごく好きでしたよ。小学校5年生から剣道日本を年間購読していました。いまでもそうなのですが、私は剣道が強くなりたい気持ちもありますが、それ以上に「剣道具をつけて剣道をする」という行為自体に興味がある」
—当時は、なにに対してご興味がおありだったのですか?
阿部「剣道日本に載っている剣道具屋さんのカタログをかたっぱしから集めて、なにが違うのか研究していました」
—情報がお好きなのは変わらないですね。
阿部「そうですね。情報を集めるのは好きですね。自転車を買うときもカタログをかたっぱしから集めていました。見本市で目をつけた自転車の良さを親にプレゼンして買ってもらったりしていました」
—剣道は高校以降も続けていたのですか?
阿部「はい。高校時代にテキサスに1年間留学していました。そのときも剣道を続けていたんです。大学に入学してからも、大学の剣友会や藤沢の道場で剣道をしていました。なんだかんだ、ずっとやっているんです。ゆるく、長く続けています」
—剣道は途中でやめてしまわれる方が多いように思いますが、阿部さんのようにゆるく剣道と付き合っていけるといいのかもしれませんね。
阿部「息子は剣道部なんですが、中学校を卒業したら私と同じくブラスバンド部に入るかも、とか言ってます。それでも良いけど、剣道も週に1回でもいいから続けてほしいなと思います」
慶應入試時の面接官は、福本修二師範
画像の出所:福岡県剣道連盟
—全剣連での活動は大学時代から続けられているのですよね?
阿部「そうですね。福本先生とのご縁で続けさせていただいています。僕はAO入試(自己推薦)で慶應義塾大学に入学したのですが、そのときの面接官がたまたま福本先生だったのです」
—それはすごい引きですね(笑)。
阿部「当時は福本先生と存じませんでした。AO入試の面接時にテキサスで剣道をしていたことをアピールしたのですが、鋭い質問をしてこられる面接官がいました。それが福本先生でした。正直剣道のことは誰も分からないだろうと思っていたので、焦りましたね。だいぶツッコまれたので絶対落ちたと思っていたら、ご縁があり合格できました。ゼミも福本ゼミに在籍させていただきました」
—運命ですね。
阿部「そうとしか思えないですね。面接は5人くらいの先生方で、皆とても怖そうに見えたんですけど、福本先生はそのなかでもオーラが違っていました。圧があるというか・・・」
—どのようにして、全剣連に関わるようになったのでしょうか。
阿部「大学に入学してから、インターネットが出現しました。いまは多様なブラウザがありますが、当時は”モザイク”というブラウザだったんですよね。そのブラウザを使って、剣道のウェブサイトを作ったりし始めました」
—学部柄、情報系に詳しい方が多かったのでしょうか。
阿部「そうですね。日本ではミスター・インターネットといわれる村井純教授もいましたし、同じ剣道サークルにもネットに詳しい同期がいたので色々教えてもらいました。インターネットに触れるには最適な環境でした」
—どのようにして剣道サイトをつくるようになったのでしょうか?
阿部「自分のウェブサイトを作ったのですが、そのうち剣道のウェブサイトも作りたいと思いました。何日か徹夜して作り上げたんです」
—数日で作れたのですね!
阿部「当時、海外でも剣道のウェブサイトを作っている方々がいました。剣道のウェブサイトを公開したあと、海外の剣道ウェブサイト関係者からたくさんメールがきましたね。いまも、その方々とのお付き合いは続いています。
イギリス代表になったジョージ・マッコールさんなどですね。ジョージ・マッコールさんは大手前高校で英語教員をしながら、
kenshi247.net(https://kenshi247.net/)というサイト運営されていますよ」
—福本先生からどういった趣旨で協力依頼があったのでしょうか?
阿部「全剣連にも情報発信部門が必要ということで、情報小委員会という部門を設けられました。そこに私が初代幹事として参画しました」
—どういった目的で、運営されていたのでしょうか?
阿部「まずは、ホームページを作って情報発信していくということですね。他にもいろいろやっていました。ご縁があって、いまもお手伝いさせていただいており、最近では”ぶしし”というキャラクターの発案にも関わりました」
—ぶししも阿部さんの仕掛けだったのですね!
剣道に没頭するために、転職
—阿部さんは新卒で電通に入社されたのですよね。
阿部「鬼十則という電通の行動規範をご存知ですか?
あれが、妙に響いたんですよね。会社の雰囲気が体育会だからかもしれません。電通ではクリエイティブ職といって、CMの企画などをやっていました」
—その後は外資の広告代理店に移籍されました。
阿部「外資の会社に在籍していたタイミングで、世界大会が日本で開催されることが決まりました。最初は同時並行で仕事と全剣連の仕事をしていたのですが、どちらも中途半端になってしまいます。世界大会が日本で開催される機会は次回いつになるか分かりませんし、運営にどっぷり携わることにしました」
—剣道のために、お仕事を変えられたのですね。家族もいらっしゃるのに、大変な決断ですよね。
阿部「妻も“どうせ止められない”と諦めたのでしょう。理解ある家族のおかげで今があります。この記事は読んでないと思いますが家族に感謝申し上げます」
—スラムダンク・バガボンドで有名な井上雄彦先生が、東京で開催された世界剣道選手権大会のイラストを描かれました。交渉は困難だったのではないですか?
阿部「ここでやらなきゃいつやるんだと思ってお会いしました。共通の知人が何人かいたので、井上先生に繋いでもらいながら、描いていただくことができました。
実は、私自身もフランスのカンヌで井上さんにお会いしたことがありました。そのときに剣道話で盛り上がったので、面識はあったんです」
画像の出所:全日本剣道連盟
—井上先生も、以前剣道をやっていたのですよね?
阿部「小・中学校の時は剣道をやっていらしたようですね。カンヌでお会いしたときに、『いつか剣道に協力してください』と冗談っぽく言っていたのを覚えていてくださった」
—二つ返事でやりましょうとなったのですか?
阿部「お会いしに行ったら、即決してくださいました。本当に嬉しかったですね」
—世界的な作家の井上先生ですので、反響もすごかったのではないですか?
阿部「すごかったです。井上先生がそのタイミングで ”井上雄彦meetsガウディ”という企画をやっていらしたので、スペインから問い合わせが多かったと記憶しています」
—私も井上先生のファンとして、大変嬉しかったです。
阿部「もともと、盗まれるくらいインパクトのあるポスターをつくりたいと思っていたんです。本当に盗まれたかはわかりませんが、結果そのようなインパクトのあるものができてよかったですね。
”ぶしし”もこれから様々な展開を考えておりますので、注目してくださると幸いです」
◆BUSHIZOのまとめ
剣道で強くなることだけを目的とせず、興味があることと両立して剣道と付き合っていくというお話が印象的でした。
広告やウェブの豊富な経験をお持ちの阿部さんが、これから剣道界に何を仕掛けていくのか、とても楽しみです!
本日はありがとうございました。
〜後編に続く〜