あの夏へ還る【第14回】(著/岩井圭也)

2021年11月27日 • お役立ち記事, 剣道小説 • Views: 1182

中学一年生の頃は、たしかに傲慢だった。小学生時代は広島で無敵、全国でも上位入賞の常連であり、近所の高校生くらいなら簡単に手玉に取ることができた。

しかし妙法学園には日本全国から剣道の天才少年が集まる。実績に優れた選手だけでなく、全国的には無名ながら、恐ろしいほど剣道が強い子どももいた。岐阜からやってきた国浜も、そういう無名選手のひとりだった。

妙法学園の寮はふたり部屋ときまっている。国浜とは中高六年間、同じ部屋で暮らした。いつも機嫌良さそうに微笑んでいる国浜を見て、最初は「気持ち悪い奴だな」としか思わなかった。

しかし稽古で竹刀を合わせて、その反応の速さに驚いた。面を打とうとすれば、すかさず出小手を打ってくる。小手を打とうとすれば、面を返される。ならばこちらが応じてやろうと思うと、居着いた隙をぼこぼこと打ち込まれる。どうして今までこんなに強い選手が全国大会に勝ち上がってこなかったのか、不思議なほどだった。

大阪に来てから最も落胆したのは、緒方先生が週に一度しか中学生の指導をしてくれないことだった。残りの週六日は、別の監督が中学生を指導する。あくまで緒方先生の指導者としての主軸は高校にあった。

夏頃に不満を抑えきれなくなり、先生に直訴した。

「もっと私の指導をしてください」

妙法学園では、目上の人物と話す時の一人称は「私」で統一されている。

「生徒はお前だけちゃうんや」

緒方先生は突き放すように言ったが、なおも食い下がった。

「じゃあ、高校の稽古に参加させてください」

今度はあっさりと「おう、ええよ」と言った。

翌日、喜び勇んで高校の稽古に参加したはいいものの、体当たりで吹き飛ばされ、突きを連打され、振りかぶる前から竹刀を弾き飛ばされ、何度踏み込んでも相手を打つことができなかった。広島にいた頃、近所の高校生を圧倒していい気になっていた自分が恥ずかしかった。妙法学園高校の剣道部員は、普通の高校生とは比べようがないほど強い。

「足手まといにならんくらい強くなったら、また来い」

稽古後、緒方先生は軽い調子でそう言った。

 

妙法学園で過ごしているうちに、傲慢さが薄れて自律意識が強くなっていった。その最大の原因は、稽古後に緒方先生が「強い選手の共通点はただ一つ、稽古の虫だということ」と言ったことだった。同室の国浜が規則正しい生活を送っていたことや、かつて経験したことがないほどしごかれたことも、自律精神を育む要因となった。しかし中学生の頃は、緒方先生の言葉が何よりも影響力を持った。

当時は先生の言うことさえ聞いていれば強くなれると信じていた。国浜に言わせれば「翔は思い込みが強すぎる」らしいが、この頃は初めての寮生活で頼れる人がいなかったこともあり、緒方先生の一言が生活を左右することも珍しくなかった。

中学二年になる頃には、毎朝五時に起床してランニングと素振りをこなした。午前中の授業が終われば誰よりも早く道場に入り、摺り足や構え等、基本的な所作を確認する。稽古がはじまれば誰よりも早く防具を着ける。早くしなければ、強い先輩を他の同期に取られてしまうからだ。

稽古後は木刀で素振り千回をこなし、トレーニングやランニングをしてから、午後十時までには床に就く。国浜は大抵八時にはいびきをかいていたから、この生活でも夜更かしだと思っていた。

一学年上の先輩が引退した後、中学の主将に任命された。主将の選定は部員の選挙で決まるが、この年は全員の票が集まった。副主将は国浜が務めることになった。

その年には大阪府団体優勝、大阪府個人優勝、全国団体準優勝、全国個人三位と立て続けにタイトルを獲得した。この頃からたまにインタビューを受けるようになり、緒方先生に言われるまますべての取材を受けていた。それでも、立ち位置は常に世代二番手だった。同学年に藤波幸太がいたせいだ。

藤波は、常に一歩前を走っていた。藤波とは小中高で十回以上対戦しているが、勝ったのは二度しかない。直接戦った時の成績が悪いせいで、藤波よりランクは下だと見られることが多かった。

しかし向こうは優勝に恵まれなかった。藤波は小学五年、六年の二年連続で全国個人準優勝。中学三年の時にも決勝で敗れ、またもや準優勝に終わっていた。いつしか「無冠の帝王」という二つ名が藤波にはつけられていた。ただし無冠ではあるが、世代のトップを走っていることは誰もが認めている。それほど、藤波のスター性は凄まじかった。

ライバルと呼べる選手は藤波しかいない。ずっとそう思っている。単なる思い込みと言われれば否定はできないが、根拠がないからこそ、その確信は自分の中で深く根を張っていた。

 

東京の体育館。

高校三年生になった藤波幸太は、目前で華麗に跳躍した。竹刀は美しい弧を描いて相手選手の面に打ち込まれる。相手は何が起こったのか、と言いたげに、ただ棒のように立っていた。

初日の男子個人では、順調に準々決勝まで勝ち上がることができた。三回戦は菊池という有力選手との対戦で苦戦が予想されたが、蓋を開けてみればストレート勝ちだった。かなり緊張していたようにも見えた。

藤波も準々決勝進出を決めている。決勝で自分と対戦するまで、藤波に敗れてもらっては困る。

藤波の打突は謎に満ちていた。どのタイミングで、どんな打突が、どの方向から来るのか予想することができない。普通の選手が相手ならば、打突の出所や機会はある程度読むことができる。しかし藤波の剣道ではそれができない。藤波と対戦する時は、身体で反応するしかないのだ。「考えるな、感じろ」という言葉がしっくりくる。

ある夜、国浜がレンタルショップでDVDを借りてきた。何気なく「何、それ」と尋ねると、国浜は「燃えよドラゴン」と答えた。その映画を、ふたりで並んで観た。国浜はブルース・リーが敵をなぎ倒す物語に熱中したが、それよりも「考えるな、感じろ」という台詞の方が胸に残った。一流の剣道選手は無意識のうちに、相手の面に応じて小手を打ったり、隙をついて竹刀を払ったりしているという。頭で考えて剣道をしているのではなく、それまでの経験から身体が勝手に反応するのだろう。

四回戦を終えた藤波が、体育館の隅で面をとっていた。何気なくそれを見ていると、藤波と目が合った。

これが漫画やドラマなら、どちらかが微笑んだりするんだろうな。

そう思いつつ、真顔で藤波の顔を見ていた。藤波がすぐに目を逸らしたので、こちらも視線をコートに戻した。

 

高校に入ってから、練習量は更に増えた。緒方先生に毎日稽古を見てもらえることが嬉しい、というのも理由のひとつだが、何より剣道をしていないと不安だった。自室で何も考えず布団に寝転んだり、同級生たちと街に遊びに行っていると、その間に自分がどんどん弱くなっているような気がした。余暇はすべて剣道に関することで埋め尽くしてしまいたかった。

一年の夏、緒方先生に直訴してみた。

「もっと稽古がしたいんです。土日の稽古後は道場に行ってもいいでしょうか」

妙法学園では週七日稽古がある。部員の自由時間は平日の稽古後と、土日の午後にしかない。

「そんなら浪体大の稽古行くか?」

土日の午後、緒方先生の母校である浪速体育大学では稽古を行っている。卒業後もたびたび顔を出している緒方先生に、早速稽古に連れられた。最初に訪れて以来、毎週土日の午後は浪体大の稽古に参加している。

土日は午前中の稽古が終わって寮で昼食を済ませた後、他の部員たちが自室へ引っ込むのを尻目に、防具を担いで電車で片道一時間かかる浪体大へ出かける。浪体大の剣道部員たちは歓迎してくれた。

「下手な大学に出稽古に行くより、翔と練習した方がええわ」

そう言ってくれる学生も少なくなかった。実際、レギュラーの選手たちと練習試合をしても簡単には負けない。

浪体大の稽古は関西一厳しいと聞いていたが、妙法学園の稽古に比べればましだった。体力的な厳しさよりも、大学生たちの攻めの巧みさが勉強になった。大学生は概ね、高校生選手に比べて手数が少ない。それは体力がないせいではなく、打つ前の攻めを重視しているせいだと知った。浪体大の部員に打たれ、時に打ちのめしながら、攻めの理法を学んだ。

高校二年の春、浪体大の主将からこう言われた。

「お前みたいな奴、妙法にもたまにおんねん。土日の午後も練習させてください、っていう奴。でも一カ月以上来たんはお前がはじめてやわ」

その頃、浪体大に通いはじめて半年が経とうとしていた。

「こんだけ強かったら、三年生になる頃にはほんまにインハイ優勝できそうやな」

その数カ月後、主将のこの言葉よりも早く、二年生でインターハイ個人優勝を達成するとは自分でも思っていなかった。

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