あの夏へ還る【第6回】(著/岩井圭也)

2021年8月29日 • お役立ち記事, 剣道小説 • Views: 1197

前の試合者と入れ替わりにコートに入り、膝を折ってつま先立ちになった。蹲踞と呼ばれる姿勢で、試合の前後にはどちらの選手もこの体勢をとる。竹刀が触れあう前から、石坂の圧力を嫌というほど感じていた。ピンに貫かれた標本の虫のように、石坂の視線に射すくめられそうになる。

「はじめ」

主審の宣告とともに立ち上がった。

初太刀から、互いの気勢が激しくぶつかりあった。石坂は立ち上がるとともにすっと間合いを縮めてくる。打ちたくなるのを我慢して、剣先で石坂の竹刀を抑えた。すると竹刀を強引に払われ、小手に跳んでくる。払われた竹刀を急転換させて石坂の小手を受け面を放ったが、既に相手は高速で身体を寄せていた。竹刀の根本が石坂の面に当たったが、近すぎるせいで一本にはならない。

鍔迫り合いから慎重に間合いをとって引き面を狙ったが、首でかわされた。引き面を打つために腕を伸ばしたせいで、小手ががら空きになってしまう。石坂にその小手を痛打されたが、これも微妙に外れているため旗は上がらない。

間合いをとるために急いで後退したが、石坂はそれより速く間合いを詰めてきた。コートの隅で足を止めた一瞬を狙って、バネのように身体をしならせながら面に跳んでくる。それに応じて相面を狙ったが、左足が踏ん張りきれなかった。

竹刀を振りかぶろうとした時には、石坂の竹刀が既に自分の面を捉えていた。竹刀が面を叩く、ばこっ、という音が体育館に鳴り響き、三本の旗が一斉に上がった。

「面あり」

開始線に戻りながら竹刀の中結いを直した。相手に一本先取された時の癖だ。背後からは父からの視線を感じた。絶対に負けない。父は負けろと思っているかもしれないが、絶対に負けない。

ここで焦ってはいけない。まだ試合開始から一分と経っていない。何度も自分に言い聞かせ、竹刀を構えなおした。

面金の隙間から覗く石坂の視線は、試合前と同じように全く迷いがない。自分の剣道に絶対の自信を持つ者だけが許される、不動の視線。

数瞬迷った後、試合前に立てた作戦を貫くことにした。ここで自暴自棄になって作戦を変えれば相手の思うつぼだ。この試合ではあくまで石坂に面を打たせ、返し胴を狙う。試合時間は残り約三分。

竹刀を構えると同時に、主審が宣告した。

「二本目」

返し胴を成功させるには、まず他の部位に石坂の意識を逸らせる必要がある。そう判断し、距離を詰めて面に跳んだ。あくまでこの面は胴への布石に過ぎない。

石坂はその面を単に竹刀で受け流すと思っていたが、思惑は外れた。石坂はこちらの面より一瞬早く踏み込み、素早く小手に出てきた。石坂の出小手は命中し、ぽこっ、という軽い音がした。副審がひとり旗を上げた。心臓がガラスをこするような音を立てて縮む。しかし他のふたりは旗を上げない。審判がふたり以上旗を上げない限りは、一本にはならない。心臓が緩んだ。

鍔迫り合いの最中、何とか戦況を読もうとしていた。ここまで石坂は小手を中心に試合を組み立てている。しかしこれは、面を打つための小手なのではないか。こちらが胴を打つための伏線として面を打っているように、石坂も小手で勝負する気はあまりないのかもしれない。事実、さっき取られたのは面だった。

石坂は面で勝負にくる。だとすれば、返し胴狙いはやはり正しい。

胴を狙っていることを悟られないため、徹底的に面を打った。引き面、遠間からの小手面、再び引き面。逸る気持ちを抑えつつ、石坂の面を待った。早く面に跳べ。胴を返す準備はできている。早く面に。

試合時間が残り一分になった頃、慎重に立ち回っていた石坂が突然間合いを詰めてきた。触刃の間から更に深く攻めてくる。石坂の剣先が上がった瞬間、確信した。

面だ。遂にきた。石坂の面を受け止めるため、素早く手元を上げる。面を受けた後は、胴を打ち抜くだけ。これで一本対一本の互角勝負。後は制限勝負なしの一本勝負だ。

しかし、石坂は面に跳ばなかった。面を打ってくるはずの竹刀は、真っすぐ喉元に伸びてきた。面を打つにしては軌道がおかしい。これは突きじゃないか? そう気付いたとき、既に石坂の竹刀は突き垂れの上から喉を突いていた。石坂は面を打つふりをして、喉が空くのを誘ったのだ。その誘いにまんまと乗せられた。

「ツキッ」

突きは喉元を狙う危険な技であるため、中学生以下では禁じられている。高校生になったばかりの初心者が力任せに突くと、命中したとしても突かれた方は咳が止まらなくなるほど痛い。逆に名手の突きは、一切痛みがなく突かれたことにも気づかない。

石坂の突きはまさにそうだった。喉に剣先が軽く当たったような気がしただけで、何の痛みも感じない。周りを見ると、審判は三人とも旗を上げていた。観客席では歓声と拍手が巻き起こった。

去年と同じだなあ。

終わってみればあっさり二本負け。蹲踞の姿勢で竹刀を収めつつ、溜め息を吐いた。

昨年も藤波と対戦する四回戦までは順調に勝っていた。昨年も今日も、調子は良かったのだ。いけると思った。その慢心のせいで、今年も負けてしまったのかもしれない。

コートを出て振り返ると、父がひとつ頷いた。黙ったまま、体育館の隅で防具を脱いだ。竹刀を竹刀袋に、防具を防具袋に丁寧に片づけ、廊下で道着袴から制服に着替えた。廊下には俺の他に誰もいない。道着と袴はいつもより時間をかけて、折り目正しく畳んだ。

涙は流れなかった。ただ、額から落ちた汗が、袴へ染みこんだ。東京の夏は、妙に不快な暑さだった。

高校三年生の夏が終わってしまった。

 

***

 

正直に言えば、試合直前まで顕介が負けることを望んでいた。律義な顕介のことだから、ベスト8に進出できなければ、きっと剣道をやめることはないだろう。曲りなりにでも、顕介には剣道を続けて欲しかった。

しかし試合がはじまれば、どうしても顕介の負けを祈ることができなかった。無心に息子の勝利を願ってしまうのは、止めようもなかった。

監督は試合中、選手に声をかけられない。黙って畳の上で正座をし、身じろぎもせず、心の中では必死で顕介が勝つ姿を思い描いた。勝ってくれ。勝て。

残念ながら願いは届かなかった。息子はコートを出た後、時間をかけて防具をしまい、道着と袴を畳んだ。顕介のインターハイは終わった。

ぼんやりと他の試合を観戦しながら、もう剣道に固執するのはやめようと決意した。自分が剣道を息子に強要しているのは、父への意趣返しなのかもしれない。あんたは俺の剣道にちっとも興味を示してくれなかったが、俺は息子のためにこんなに尽くしている。俺には、俺の剣道を受け継いでくれる息子がいる……

父が死んだ今、そんな反抗はもう止めにしよう。顕介には絵だって何だって、好きにやらせよう。

廊下で端座している顕介に近づいた。気配に気づいた顕介は、こちらを見上げて、清々しく笑った。

「ひん負けたあ」

 

その日の夕食には焼肉を食べに行った。顕介が今一番食べたいものとして、焼肉をリクエストしたのだ。安い店ではなかったが、目についたメニューを片端から注文した。顕介はしきりに「うめえ」と言いながら肉と白米を頬張った。負けじと肉を焼き、食べた。

「ビールは?」

顕介の問いかけに「お前は酒飲めないから、俺も我慢してるんだよ」と答えた。

「変なとこは気遣う」

顕介はぼそっとそう呟いた。

腹が落ちついてきた頃、切り出した。

「剣道をしながら絵を描くってのは、駄目なんか?」

顕介の眉が動き、眉間に皺が寄った。こういう表情をすると、自分によく似ている。

「別に三回戦で負けたからって、これ以上剣道を強制する気はない。でも本当にここでやめてええのか? 絵を描くことと剣道と、両立すればええじゃねか」

社会科教師になったのは、剣道馬鹿と呼ばれたくないからだった。剣道しかできない人間にはなりたくない、という青年期の反抗心がそうさせた。社会科を選んだのは、日本史だけがかろうじて好きだったからにすぎない。しかし教師になって三十年近く経った今、冷静に自らを観察すれば、典型的な剣道馬鹿になっている。

顕介が中学生の時に絵画コンクールで入賞したと聞いた時、息子のことが誇らしくて仕方がなかった。剣道以外の才能をもっていたことを発見して嬉しくなった。しかしまだ十五歳の息子を誉めちぎることは、教育方針に反している。父がそうだったように、顕介のことを甘やかさずに育てたかった。

「そんつもりだよ」

顕介は机の端に視線を合わせていた。落ちこんでいるようには見えない。

「負けたんやし剣道は続ける。でも絵も描く」

「そうか」

剣道を続けると言ってくれたことは、やはり嬉しかった。剣道を続けてくれるのならば、絵だって好きなだけ描けばいい。それが顕介のやりたいことならば。

「顕介。お前明後日までどげんする?」

鹿児島へ帰る飛行機は、大会の最終日である明後日に予約していた。ホテルも明日までとってある。明後日の閉会式には出席しなければならないのだ。

「上野の美術館とか、行きたいか?」

美術館など一度も行った記憶がないが、それが上野にあったことだけは憶えている。どんな美術館かは知らない。顕介はすぐに「いや、いい」と言った。

「試合が見てえ」

そう言う顕介の眼は、剣道選手の眼だった。ウーロン茶を飲み干して言った。

「やっぱい負けると悔しい」

視線を上げた。久しぶりに、面を被っていない顕介と目を合わせた気がした。

「絵を描きたいなと思うのはさ、本当にその瞬間を大切に思った時なんだよね」

顕介は目を逸らした。その横顔は、自分にも父にも似ている。

「今描きたいものがあるのか?」

「そうやなあ……」

顕介は数秒考えてから答えた。

「花火かな」

顕介にはほとんど夏らしい思い出がないだろうことに気づいた。夏休みは毎日稽古と遠征で、最後に花火大会へ連れて行ったのも、もう記憶にないほど昔のことだ。

今度見に行くか、という台詞は、照れくさくて言えなかった。今は言えなくても、鹿児島に帰ったらきっと「花火を見に行こう」と言おう。

焼肉屋の窓から外を見た。東京の夜はネオンで溢れている。鹿児島では、きっと東京よりも綺麗に花火が見えるだろう。

 

***

 

中学生の時に金賞を獲得した絵は、今でも部屋に飾っている。

白い部分には黄ばみが目立ち、絵の具は色あせている。

場所は剣道場。真ん中にただひとり、ぽつんと人が描かれていた。その人物は道着袴を身につけ、竹刀を振りかぶっている。こちらを見ている顔は厳しいが、少し寂しそうにも見えた。

絵の題は「私の師匠」。

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