前の試合者と入れ替わりにコートに入り、膝を折ってつま先立ちになった。蹲踞と呼ばれる姿勢で、試合の前後にはどちらの選手もこの体勢をとる。竹刀が触れあう前から、石坂の圧力を嫌というほど感じていた。ピンに貫かれた標本の虫のように、石坂の視線に射すくめられそうになる。
「はじめ」
主審の宣告とともに立ち上がった。
初太刀から、互いの気勢が激しくぶつかりあった。石坂は立ち上がるとともにすっと間合いを縮めてくる。打ちたくなるのを我慢して、剣先で石坂の竹刀を抑えた。すると竹刀を強引に払われ、小手に跳んでくる。払われた竹刀を急転換させて石坂の小手を受け面を放ったが、既に相手は高速で身体を寄せていた。竹刀の根本が石坂の面に当たったが、近すぎるせいで一本にはならない。
鍔迫り合いから慎重に間合いをとって引き面を狙ったが、首でかわされた。引き面を打つために腕を伸ばしたせいで、小手ががら空きになってしまう。石坂にその小手を痛打されたが、これも微妙に外れているため旗は上がらない。
間合いをとるために急いで後退したが、石坂はそれより速く間合いを詰めてきた。コートの隅で足を止めた一瞬を狙って、バネのように身体をしならせながら面に跳んでくる。それに応じて相面を狙ったが、左足が踏ん張りきれなかった。
竹刀を振りかぶろうとした時には、石坂の竹刀が既に自分の面を捉えていた。竹刀が面を叩く、ばこっ、という音が体育館に鳴り響き、三本の旗が一斉に上がった。
「面あり」
開始線に戻りながら竹刀の中結いを直した。相手に一本先取された時の癖だ。背後からは父からの視線を感じた。絶対に負けない。父は負けろと思っているかもしれないが、絶対に負けない。
ここで焦ってはいけない。まだ試合開始から一分と経っていない。何度も自分に言い聞かせ、竹刀を構えなおした。
面金の隙間から覗く石坂の視線は、試合前と同じように全く迷いがない。自分の剣道に絶対の自信を持つ者だけが許される、不動の視線。
数瞬迷った後、試合前に立てた作戦を貫くことにした。ここで自暴自棄になって作戦を変えれば相手の思うつぼだ。この試合ではあくまで石坂に面を打たせ、返し胴を狙う。試合時間は残り約三分。
竹刀を構えると同時に、主審が宣告した。
「二本目」
返し胴を成功させるには、まず他の部位に石坂の意識を逸らせる必要がある。そう判断し、距離を詰めて面に跳んだ。あくまでこの面は胴への布石に過ぎない。
石坂はその面を単に竹刀で受け流すと思っていたが、思惑は外れた。石坂はこちらの面より一瞬早く踏み込み、素早く小手に出てきた。石坂の出小手は命中し、ぽこっ、という軽い音がした。副審がひとり旗を上げた。心臓がガラスをこするような音を立てて縮む。しかし他のふたりは旗を上げない。審判がふたり以上旗を上げない限りは、一本にはならない。心臓が緩んだ。
鍔迫り合いの最中、何とか戦況を読もうとしていた。ここまで石坂は小手を中心に試合を組み立てている。しかしこれは、面を打つための小手なのではないか。こちらが胴を打つための伏線として面を打っているように、石坂も小手で勝負する気はあまりないのかもしれない。事実、さっき取られたのは面だった。
石坂は面で勝負にくる。だとすれば、返し胴狙いはやはり正しい。
胴を狙っていることを悟られないため、徹底的に面を打った。引き面、遠間からの小手面、再び引き面。逸る気持ちを抑えつつ、石坂の面を待った。早く面に跳べ。胴を返す準備はできている。早く面に。
試合時間が残り一分になった頃、慎重に立ち回っていた石坂が突然間合いを詰めてきた。触刃の間から更に深く攻めてくる。石坂の剣先が上がった瞬間、確信した。
面だ。遂にきた。石坂の面を受け止めるため、素早く手元を上げる。面を受けた後は、胴を打ち抜くだけ。これで一本対一本の互角勝負。後は制限勝負なしの一本勝負だ。
しかし、石坂は面に跳ばなかった。面を打ってくるはずの竹刀は、真っすぐ喉元に伸びてきた。面を打つにしては軌道がおかしい。これは突きじゃないか? そう気付いたとき、既に石坂の竹刀は突き垂れの上から喉を突いていた。石坂は面を打つふりをして、喉が空くのを誘ったのだ。その誘いにまんまと乗せられた。
「ツキッ」
突きは喉元を狙う危険な技であるため、中学生以下では禁じられている。高校生になったばかりの初心者が力任せに突くと、命中したとしても突かれた方は咳が止まらなくなるほど痛い。逆に名手の突きは、一切痛みがなく突かれたことにも気づかない。
石坂の突きはまさにそうだった。喉に剣先が軽く当たったような気がしただけで、何の痛みも感じない。周りを見ると、審判は三人とも旗を上げていた。観客席では歓声と拍手が巻き起こった。
去年と同じだなあ。
終わってみればあっさり二本負け。蹲踞の姿勢で竹刀を収めつつ、溜め息を吐いた。
昨年も藤波と対戦する四回戦までは順調に勝っていた。昨年も今日も、調子は良かったのだ。いけると思った。その慢心のせいで、今年も負けてしまったのかもしれない。
コートを出て振り返ると、父がひとつ頷いた。黙ったまま、体育館の隅で防具を脱いだ。竹刀を竹刀袋に、防具を防具袋に丁寧に片づけ、廊下で道着袴から制服に着替えた。廊下には俺の他に誰もいない。道着と袴はいつもより時間をかけて、折り目正しく畳んだ。
涙は流れなかった。ただ、額から落ちた汗が、袴へ染みこんだ。東京の夏は、妙に不快な暑さだった。
高校三年生の夏が終わってしまった。
***
正直に言えば、試合直前まで顕介が負けることを望んでいた。律義な顕介のことだから、ベスト8に進出できなければ、きっと剣道をやめることはないだろう。曲りなりにでも、顕介には剣道を続けて欲しかった。
しかし試合がはじまれば、どうしても顕介の負けを祈ることができなかった。無心に息子の勝利を願ってしまうのは、止めようもなかった。
監督は試合中、選手に声をかけられない。黙って畳の上で正座をし、身じろぎもせず、心の中では必死で顕介が勝つ姿を思い描いた。勝ってくれ。勝て。
残念ながら願いは届かなかった。息子はコートを出た後、時間をかけて防具をしまい、道着と袴を畳んだ。顕介のインターハイは終わった。
ぼんやりと他の試合を観戦しながら、もう剣道に固執するのはやめようと決意した。自分が剣道を息子に強要しているのは、父への意趣返しなのかもしれない。あんたは俺の剣道にちっとも興味を示してくれなかったが、俺は息子のためにこんなに尽くしている。俺には、俺の剣道を受け継いでくれる息子がいる……
父が死んだ今、そんな反抗はもう止めにしよう。顕介には絵だって何だって、好きにやらせよう。
廊下で端座している顕介に近づいた。気配に気づいた顕介は、こちらを見上げて、清々しく笑った。
「ひん負けたあ」
その日の夕食には焼肉を食べに行った。顕介が今一番食べたいものとして、焼肉をリクエストしたのだ。安い店ではなかったが、目についたメニューを片端から注文した。顕介はしきりに「うめえ」と言いながら肉と白米を頬張った。負けじと肉を焼き、食べた。
「ビールは?」
顕介の問いかけに「お前は酒飲めないから、俺も我慢してるんだよ」と答えた。
「変なとこは気遣う」
顕介はぼそっとそう呟いた。
腹が落ちついてきた頃、切り出した。
「剣道をしながら絵を描くってのは、駄目なんか?」
顕介の眉が動き、眉間に皺が寄った。こういう表情をすると、自分によく似ている。
「別に三回戦で負けたからって、これ以上剣道を強制する気はない。でも本当にここでやめてええのか? 絵を描くことと剣道と、両立すればええじゃねか」
社会科教師になったのは、剣道馬鹿と呼ばれたくないからだった。剣道しかできない人間にはなりたくない、という青年期の反抗心がそうさせた。社会科を選んだのは、日本史だけがかろうじて好きだったからにすぎない。しかし教師になって三十年近く経った今、冷静に自らを観察すれば、典型的な剣道馬鹿になっている。
顕介が中学生の時に絵画コンクールで入賞したと聞いた時、息子のことが誇らしくて仕方がなかった。剣道以外の才能をもっていたことを発見して嬉しくなった。しかしまだ十五歳の息子を誉めちぎることは、教育方針に反している。父がそうだったように、顕介のことを甘やかさずに育てたかった。
「そんつもりだよ」
顕介は机の端に視線を合わせていた。落ちこんでいるようには見えない。
「負けたんやし剣道は続ける。でも絵も描く」
「そうか」
剣道を続けると言ってくれたことは、やはり嬉しかった。剣道を続けてくれるのならば、絵だって好きなだけ描けばいい。それが顕介のやりたいことならば。
「顕介。お前明後日までどげんする?」
鹿児島へ帰る飛行機は、大会の最終日である明後日に予約していた。ホテルも明日までとってある。明後日の閉会式には出席しなければならないのだ。
「上野の美術館とか、行きたいか?」
美術館など一度も行った記憶がないが、それが上野にあったことだけは憶えている。どんな美術館かは知らない。顕介はすぐに「いや、いい」と言った。
「試合が見てえ」
そう言う顕介の眼は、剣道選手の眼だった。ウーロン茶を飲み干して言った。
「やっぱい負けると悔しい」
視線を上げた。久しぶりに、面を被っていない顕介と目を合わせた気がした。
「絵を描きたいなと思うのはさ、本当にその瞬間を大切に思った時なんだよね」
顕介は目を逸らした。その横顔は、自分にも父にも似ている。
「今描きたいものがあるのか?」
「そうやなあ……」
顕介は数秒考えてから答えた。
「花火かな」
顕介にはほとんど夏らしい思い出がないだろうことに気づいた。夏休みは毎日稽古と遠征で、最後に花火大会へ連れて行ったのも、もう記憶にないほど昔のことだ。
今度見に行くか、という台詞は、照れくさくて言えなかった。今は言えなくても、鹿児島に帰ったらきっと「花火を見に行こう」と言おう。
焼肉屋の窓から外を見た。東京の夜はネオンで溢れている。鹿児島では、きっと東京よりも綺麗に花火が見えるだろう。
***
中学生の時に金賞を獲得した絵は、今でも部屋に飾っている。
白い部分には黄ばみが目立ち、絵の具は色あせている。
場所は剣道場。真ん中にただひとり、ぽつんと人が描かれていた。その人物は道着袴を身につけ、竹刀を振りかぶっている。こちらを見ている顔は厳しいが、少し寂しそうにも見えた。
絵の題は「私の師匠」。