あの夏へ還る【第26回】(著/岩井圭也)

2022年2月19日 • お役立ち記事, 剣道小説 • Views: 940

クローゼットの奥に押し込んでいた竹刀と防具を引っ張り出した。袋から取り出してみると、カビ臭さが鼻をつく。六年間触れていないのだから、カビに侵食されていて当然だ。雑巾で防具の表面を拭き、日陰に干した。当日には、一応カビが取れた。

水曜日。早めに仕事を切り上げて、湊の言っていた剣道教室へ向かった。駅のコインロッカーで防具と竹刀を回収していく。久しぶりに担ぐ防具袋の紐が肩に食い込んだ。指定された最寄り駅で降り、駅近くの小学校に足を踏み入れる。静まり返った校舎の中、体育館だけが煌々と明かりを灯していた。

「あっ、浦辺さん」

先に来ていた湊が駆け寄ってきた。既に道着袴を着ている。湊に案内されるまま、道場の隅に竹刀と防具を下ろした。湊が言っていた通り、体育館には小学生や中学生らしき少年剣士たちが十人ほどいた。各々が道着に着替えたり、友達と雑談している。

「ちょっと待っててください」

そう言い残すと、湊はまた体育館を出ていった。

手持ちぶさたになり、とりあえず道着に着替えることにした。久しぶりに着る道着は思っていた以上にごわごわしている。袴をはいている最中、目の前でまだ小学生らしい子どもが駆けまわっていた。友達を追いかけているらしい。ふたりで何事かを言いあいながら、体育館の中を走っている。保護者らしき女性たちも、それを和やかに見守っていた。不意に、少年が床に置いてある竹刀をまたいだ。あっ、と口に出した瞬間、鋭い声が飛んだ。

「竹刀をまたぐな!」

声は体育館の入り口から発せられた。振り向くと、三十代くらいの男が竹刀をまたいだ少年を厳しい顔突きで睨んでいた。その後ろには湊が立っている。男は靴を脱ぎ、きちんと揃えてから体育館に上がった。上座に向かって一礼した後、少年に歩み寄った。少年は、その場で立ち止まって呆然としていた。

「竹刀をまたいじゃダメだ。礼儀は剣道の基本だぞ」

少年はまだ呆けた顔で男を見上げている。

「返事は」

「ごめんなさい」

ようやく少年はそう口にした。泣き出しもせず、ちゃんと謝っただけでも偉いもんだ、と思う。湊が男に駆け寄り、こっちを見た。慌ててはきかけていた袴の紐を結ぶ。男は防具を担いだまま歩み寄ってきた。

「はじめまして。主催者の鈴木です」

「浦辺といいます」

互いに頭を下げた。近くで見ると、鈴木の顔には深い皺が刻まれている。精悍な顔立ちで若々しく見えるが、実際には四十歳を超えていそうだ。

「浦辺さんはインターハイで三位だったとか。大吾からはかなりお強いと聞きましたよ」

「いやそんな。剣道を離れて六年経つので、どこまで身体が動くか」

鈴木は数言交わすと、体育館の上座に防具を下ろした。どうやらそこが鈴木の定位置らしい。ストレッチをしながら稽古の開始を待っていると、男の子を連れた中年の男がやってきた。大きな腹が突き出している。

「久しぶりじゃないですか、中倉さん」

「今日は新しい人が来るって聞いたんで、無理して会社を出てきました。あ、この方がそう?」

湊から中倉と呼ばれた男は、友好的な笑みを浮かべて近づいてきた。一緒に来た男の子は子どもたちの輪へ駆けていった。

「浦辺といいます。今日はよろしくお願いします」

「中倉です。大吾くんから聞きました。上段の使い手なんですってね。それもかなり強いとか」

知らないところで、湊に相当ハードルを上げられているらしい。

中倉は慇懃に挨拶を済ませると、隣に防具を下ろした。剣道をするには少し太りすぎのような気がした。

道着姿になった鈴木が、竹刀を手に声を張り上げた。

「集合!」

散っていた子どもたちが、あっという間に鈴木の前に整列した。先頭右端の子どもが「着座」と声を上げると、全員が正座をした。湊、中倉と三人でその後ろに正座する。

「黙想」

号令に合わせて、全員が目を閉じた。鈴木が「やめ」というと、少年少女剣士たちは、神前と正面に二度礼をした。中にはまだ小学生になったばかりと思える子どももいるのに、しっかりしている。ただただ感心していた。感情が表に出ていたのか、隣に座る中倉が耳打ちした。

「すごいでしょ。鈴木先生の指導力のおかげですよ」

鈴木は子どもたちを何人かあてて、今日の稽古の目標を言わせた。

「出ばなを逃さないよう注意します」

「引き技で相手に追いつかれないよう下がります」

それが終わると、今度は「浦辺先生」と呼ばれた。

「今日は新しい人を紹介します。浦辺元信先生です」

「先生なんて、そんな……」

思わず照れたが、鈴木は構わず紹介を続けた。

「浦辺先生は上段をとられます。みなさんはまだ上段をとることができませんが、高校生になったら上段の相手と試合をすることもあるでしょう。そのための貴重な勉強と思って、今日の稽古に臨んでください。浦辺先生に、礼」

「よろしくおねがいします」

子どもたちが呼吸を揃えて礼をした。しどろもどろになりながら、「こちらこそ」と言って頭を下げた。

 

久しぶりの稽古は楽しかった。

素振りの時点で二の腕がぱんぱんに張っていることに気づいたが、抜けるわけにはいかない。防具を着けて基本稽古に混じる。その後は子どもたちとの地稽古。久しぶりに上段をとったが、竹刀を振りかぶるだけで精一杯だった。とても高校生の時のように素早い打突を繰り出すことはできない。とは言え鈴木の紹介の手前、上段をやめるわけにもいかない。くたくたになりながら、子どもたちの相手をこなした。

地稽古の終わり頃、湊が声をかけてきた。右小手の親指を立てている。

「浦辺さん、一本勝負」

勘弁してくれよ。その言葉を飲み込み、湊と立ち合った。当然のように湊にあっさりと小手を奪われる。

「参りました」

「浦辺さん、もう一本」

湊の余裕の表情に、少し苛立った。負けてたまるか。

結局、湊に小手三本、面一本を決められた。不思議だったのは、湊の剣道が以前よりもはるかに綺麗になっていることだった。勝つことだけにこだわるなら、もっと違うやり方がある。少なくとも、インターハイでの湊は違うやり方だったと記憶している。大学時代に正しい剣道を叩きこまれたのだろうか。大学生になってからは湊の試合を見た覚えはない。それとも何かがきっかけとなり、彼自身が変わろうと努力したのだろうか。真相はわからないが、何となく後者であってほしいと思った。

最後の一本で、正面から湊の面に竹刀を叩きこんだ。打った、というよりも当たった、という方が正確かもしれない。打ち込まれた湊はようやく満足したらしく、「参りました」と言って引き下がった。周りで見ていた子どもたちが感嘆の声を上げた。

「速いなあ」

「すげえ」

鈴木が近付き、「稽古しろ」と言って子どもたちを追いやった。

ようやく休める。そう思った次の瞬間、鈴木が目の前で親指を立ててみせた。

「一本お願いします」

 

稽古の最後は、また鈴木と向かい合う形で子どもたちが整列する。掛かり稽古を受けているあたりから、もう汗も出なかった。こんなに疲れたのはいつぶりだろうか。入念にストレッチをしておいてよかった。面を外しながらそう思った。七月だというのに、顔にあたる外気が涼しい。

鈴木の横には、知らない男がもうひとり座っていた。いつの間に稽古に参加したのだろう。五十代くらいに見える、細い鶴のような男だった。位置的には鈴木の上座にあたる。垂れには、森田、と書かれていた

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