あの夏へ還る【第23回】(著/岩井圭也)

2022年1月29日 • お役立ち記事, 剣道小説 • Views: 968

長年剣道をやっていると、格言の類によく出会う。中でもお気に入りは「勝に不思議の勝あり。負に不思議の負なし」という言葉だ。江戸時代の大名である松浦静山という人の遺した言葉らしい。この言葉は敗者の言い訳を許さない厳しさの面が注目されがちだが、本質はそこだけではないと思う。大事なのは、「不思議の勝」が少なからぬ頻度で存在することだ。

藤波幸太の剣道は不思議な剣道だとよく評される。対戦する相手からすれば、出所のわからない不気味な剣道らしい。その評価はともすれば敗者の負け惜しみにも聞こえる。不思議な剣道、という言葉の裏にはまぐれ勝ちのニュアンスが込められていることもあるからだ。しかし不思議な勝ちにしろ、勝ちは勝ちに違いない。むしろ無心の打突が一本になった時こそ、人はそれを不思議な勝ちと呼ぶのではないか。

そして無心の打突こそ、すべての剣道家が目指すところだと言える。

 

試合終了の四分が迫る頃、剣先を上げたところに石坂が片手突きを見舞ってきた。準決勝で一本を決めた技だ。冷静にそれを払い、面に跳びこむ。石坂は慌てて竹刀で防いだ。惜しくも一本にはならなかったが、この打突に勝機を見た気がした。

石坂は焦っている。

いつもの石坂なら、この状況で片手突きなどという無謀な攻め方は絶対にしない。相手が三所隠しでもしているならともかく、普通に攻めている状況からの片手突きなど、決まるはずがないのに。

「やめ」

四分が経ち、主審の掛け声と同時にいったん竹刀を下げた。互いに決め手がないまま、試合は延長へと突入した。

どうやって石坂から一本をとるか、もう一度流れを組み立てた。面を誘うという基本方針は変わらない。そこに出小手なり、返し胴なりを合わせる。かつぐのは一本を取りに行く瞬間のみ。もしかつぐタイミングを間違えれば、逆にこちらがやられる。隙の多いかつぎ技でしかけるのは賭けだった。しかし石坂から一本を取るためには、ある程度は賭けに出なければならないだろう。

剣先を低くして面を誘うが、それだけで簡単に乗ってくれる相手であれば苦労はしない。石坂は注意深くにじり寄りながら、小手面や応じ技を主体に試合を組み立てていた。出小手の危険性を本能的に察知しているのだろうか。だとすれば、その予感は正しい。石坂が面を打とうと少しでも動いた瞬間、躊躇なく小手を打つ。いずれ必ず、石坂が罠にかかるという確信があった。

延長開始から三分が過ぎた。体育館にいる誰もが口をつぐんでいる。静かな会場で、石坂の心臓が急激に高鳴る音を聞いた気がした。遂に石坂の打ち気が出た。

俺はそこを見逃さずに竹刀をかつぐ。石坂の剣先が面に向かって真っすぐに伸びる。その動きに合わせて、最短距離で出小手を放つ。

そのはずだった。しかし、一瞬だけ疑念がよぎった。

もし、この面打ちがフェイクだとしたら?

一瞬の後、既に石坂の竹刀は正確に俺の面を打ち据えていた。石坂は横を素早く駆け抜け、俺の竹刀は石坂の二の腕に外れていた。旗が三本上がった。

「面あり」

その瞬間、夏が終わった。

 

***

 

妙法学園の応援団から、嬌声が上がった。続いて拍手。拍手の輪は観衆全体に広がり、ふたりの選手は拍手の渦の中、コートから立ち去った。七、八分の試合に、ふたりの十数年の人生が凝縮されていた。

観客たちと一緒に拍手をしながら、目に溜まった涙を拭いた。

剣道を観戦するのは二度目だ。初めて見た場所は岡山のインターハイ会場だった。

去年の岡山ではわざわざ試合を観戦しにきながら、遂に幸太に声をかけることができなかった。今の幸太にとって最も大事なものは私じゃない。それがわかったからこそ、幸太からの電話にも出ず、連絡を絶つことにした。

面を脱いだ彼の顔は、相変わらず美しかった。幸太には、他の少年にはない輝きがある。それは、青春を生きている人間だけが放つことのできる輝きだった。

観客席を立った。これから急いで福岡に戻らなければいけない。閉会式で幸太が首に銀メダルをかけるところを見られないのは残念だが、仕事が待っている。徹夜で記事を書き、朝一番の新幹線に飛び乗って東京へ来た。これから下りの新幹線で福岡に戻ったら、取材、そして朝まで仕事だ。たくさん仕事をもらっているのはライターとして認められているということで、悪いことじゃない。だから人気女性誌からインタビュー記事を依頼されることもあるし、そのお陰で幸太と出会うことができた。

取材相手と寝たのは幸太が最初だし、たぶん最後だと思う。最初にホテルに行った時に嘘をついたのは、ひと回り年長の女としての、妙なプライドのせいだった。

どうして幸太と寝たのだろうと考える。美しい容姿は、紛れもなく大きな要因だった。だけどそれだけじゃない。青春の輝きに加えて、私は彼の暗い部分にも魅かれていた。幸太はルックスにも剣道の才能にも恵まれているのに、現状にまったく満足していない、不幸せな男に見えた。

都合のいい時に呼び出されていたことは知っている。事が済んだ後の冷たい横顔を見れば、そんなことはすぐにわかる。だからこそ、わざわざ岡山まで行っておきながら、幸太の前に現れることができなかった。もし彼女面して登場すれば、ずうずうしい女だと思われるかもしれない。だいたい、十七、八の男の子に本気になっている事実を、私自身が認めたくなかったのだと思う。

このままフェードアウトするつもりだった。連絡を絶つのは辛かったが、仕事の忙しさが忘れさせてくれた。

あれから一年が経ち、今年のインターハイにも幸太が出場すると知った。いてもたってもいられなかった。衝動的に、東京行きのチケットを購入していた。諦めの悪い女だとつくづく思う。もし、彼にとって私よりも大事なものが剣道なのだとしたら、その結末を見届けたかった。願いは一応、叶った、と思う。

体育館の外に出てから振り返った。館内では団体戦をやっている最中だろうか。それとも、もう閉会式がはじまっているのか。幸太の首にかけられるメダルは、きらきら輝いているだろうか。

 

***

 

妙法学園は団体戦でも優勝を果たした。表彰式で賞状を受け取る石坂の背中を見つめながら、妙な清々しさを覚えていた。悔しいはずなのに、どこかすっきりしていた。

式の後、俺は監督や部員たちとともに写真を撮った。カメラの方を向きながら、観客席に目を走らせた。美苗の姿はどこにもない。もしかしたら応援に来てくれているかもしれない。そんな期待は、シャッター音と一緒に空中へ霧散した。

廊下の隅で、道着から制服へ着替えた。防具を担いでタクシーを待つ。夕食の前に、一旦ホテルに戻るためだ。監督とふたりで最後の一台に乗り込んだ。助手席に座ろうとすると、監督に制され、後部座席に押し込まれた。タクシーが発進してからしばらくして、助手席の監督が口を開いた。

「三年間、お疲れさま」

ポケットの中からメダルを取り出した。銀色のメダルは暗くなりはじめた街のネオンサインを反射して、色とりどりの光を放っている。メダルに映った光のひとつが、突然歪んだ。歪みは瞬く間に広がり、メダル全体に及んでいく。

どれだけ流しても涙が止まらない。嗚咽を噛み殺しながら、銀メダルを両手で握りしめた。

 

高校三年のインターハイで得た銀メダルは、寮の部屋の最もいい場所に飾っている。どの金メダルよりもよく見える場所に。それを目にするたび、石坂翔との決勝戦を思い出すことができる。

部活を引退しても寮生活は卒業まで続く。毎日のように道場へ顔を出し、後輩に稽古をつけた。これまでは勝負の重圧に耐えるので精一杯だったが、今は剣道が楽しくて仕方がない。

最近は考えることが多くなった。今までは剣道のために生きていればよかった俺たちの前に、にわかに進路という得体の知れないものが現れたせいだ。俺も多くの同期部員と同様、推薦で大学に進むことにした。

問題はその後だ。警察か、教員か、実業団か。剣道を職業にすることが難しい以上、何らかの形で就職をしなければならない。何となく、剣道の普及に携わりたい気持ちはあった。それも雑誌の取材という形ではなく、道場での指導によって。いっそ海外にでも逃げるか。

「剣道界」十月号は発売日に購入した。そこには優勝者のインタビューが掲載されている。

 

――石坂選手は、優勝した理由をどのように分析しますか。

「本当によくわからないんです。特に決勝では、藤波選手の出小手が完璧に私の出ばなを捉えていたような気がしました。しかし実際には、それより早く自分が面を打っています。ビデオを見ても、確かに私の方が一瞬早く、面を打っている」

――身体の反応に、頭の判断が追いついていないということでしょうか。

「それもあると思います。それに、私は自分のことを正しく評価できていないんじゃないかと思うんです」

――石坂選手はご自身のことをどう評価していますか。

「率直に申し上げると、自分自身はあまり才能のない選手だと思っています。私より才能のある選手は大勢いますから。才能の差を何とか工夫して埋め合わせている、という感じですね。今でも自分に自信はないです」

――全国王者に自信がないというのは、意外な気がします。

「臆病だから、誰よりも稽古をしてきたんでしょうね。二度の優勝は、そんな臆病な自分だからできたんだと思います。そろそろ、自分のことを許してやってもいいのかもしれません」

 

いつも決まりきった台詞しか言わない石坂にしては、面白い内容だった。自分のことを許してやってもいいのかもしれない。その一言は、俺にも通じるような気がした。

寮の自室で記事を読み終わった後、意を決して電話をかけてみた。

三度目の着信音が鳴った後、相手が出た。

「もしもし」

一年ぶりに聞く美苗の声が、全身に浸みていった。

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