常陽高剣道部では、インターハイ後の部内選挙によって次期主将が決定される。高校二年のインターハイ後、俺は全員からの票を得て次期主将に任命された。次期主将の最初の仕事は、その結果を監督に報告することである。体育職員室の戸を開き、監督の席に歩み寄った。
「部内選挙が終了しました。次期主将には自分が任命されました」
「そうか」
監督は腕組みをして少し考えた後に言った。
「今から戻って、断ってこい」
何を言っているのかわからなかった。
「どういうことでしょう?」
「お前じゃ優勝できないよ。断ってこい」
監督は直立不動の次期主将を無視して、職員室を出ていった。立ったまま三十分間待ったが、監督は戻ってこなかった。顔見知りの体育教師から「なにやっとる。平沢先生なら帰ったよ」と言われて、ようやく職員室を出ることができた。
道場では部員たちが待ちくたびれていた。
「長かったな。新主将へのお説教か?」
同期部員が茶化したが、まともに相手するだけの余裕はなかった。
俺じゃ優勝できない? じゃあ、俺以外の誰が指揮をとれば優勝できるっていうんだ。居並ぶ部員たちの顔を順番に見た。何度考えても、俺以上に恵まれた才能をもつ者はその場にいなかった。
その時、脳裏にひとりの男が浮かんだ。金色のメダルを下げた石坂翔だった。俺よりも更に多くの才能を与えられている者。石坂であれば、あるいは俺よりも豊かな資質を持っているかもしれない。
結局主将の件はうやむやのまま、翌日から夏期休暇がはじまった。
実家に到着したのは夕方のことだった。父は海外出張中で不在だったが、母と姉が出迎えてくれた。夕食の席にやはり悠樹はいなかった。誰よりも、悠樹と話がしたいと思った。
「悠樹、高校行っとうと?」
「一応、学校には毎日行きよるけど、どげなもんかねえ」
私立校に入学した悠樹は部活動にも入らず、毎日遊び歩いているらしい。姉は悠樹の話をすること自体に嫌悪感を覚えているらしく、その話題には一度も口を挟まなかった。
昨年のように深夜まで待った。悠樹が帰宅するなら、家族と遭遇しない深夜を選ぶはずだ。もっとも、最近では外泊することも少なくないらしい。その時は、明日の夜にまた待っていればいい。コーヒーを飲んでテレビの深夜番組を見ながら、悠樹の帰宅を待った。
いつの間にかソファで眠りに落ちていた。誰かに肩を揺すられて目を覚ますと、オーバーサイズのピンク色のポロシャツが視界に飛び込んできた。視線を上げると、俺とよく似た顔が見下ろしていた。
「なんやってん。そこどいて。テレビ観るから」
悠樹はぞんざいな口調で肩を揺らし続けた。立ち上がると、悠樹はソファに勢いよく腰を下ろす。俺は自室に帰りもせず、その場に立っていた。時計を見ると午前一時を過ぎている。
しばらく、互いに沈黙していた。テレビの通販番組では、ローカルタレントが包丁の切れ味に大仰に驚いていた。悠樹は本当にこんな番組を見るために、わざわざ俺を起こしたのだろうか。そう思った頃、悠樹が口を開いた。
「お前、何か用かよ。こんな時間までここにおって」
痺れを切らした悠樹が、棒立ちになっている兄を見上げた。
「悠樹」
「なに」
「中一の時、どうして剣道やめた?」
数秒、悠樹はテレビを観た姿勢のまま考えているようだった。単純に稽古の辛さから逃げ出したのかと思っていたが、やはり弟なりに思うところがあったのだろうか。ぼんやりと考えていると、悠樹は前触れもなく立ち上がり、俺のTシャツの胸元を掴んだ。
「喧嘩売ってんのか!」
Tシャツの縫製が、ぷち、ぷち、と音を立てて千切れるのも構わず、悠樹はTシャツを引き絞った。意外な悠樹の腕力の強さに驚きつつ、もう一度「どうしてやめた」と尋ねた。
「お前に言う必要なかんばい。黙っとれ」
「俺もやめようかと思ってる」
「あ?」
悠樹の手が緩んだ。
「何のために剣道してるのかわからなくなってきた」
「はん」
悠樹はTシャツから手を離すと、今度は馬鹿にしたような笑いを浮かべた。急に手を離された反動で、後ろに数歩よろめいた。
「お前には剣道をする才能ばあるけど、剣道をする資格はなかと」
しばし沈黙が流れた。悠樹はまだ何か言いたそうだった。
「いい加減に気付けよ」
その時初めて気付いた。ぶら下げた悠樹の右手首には、湿疹のような赤い跡があった。見覚えのあるものだ。それは、稽古で小手を打たれた時につく跡だった。悠樹はつい最近、剣道をしたのだ。
こいつはまた、剣道と向き合うことにしたのだ。
「お前には剣道しかなかと。もっと真剣に、剣道と向き合えや」
悠樹はそれ以上何も言わず、リビングのドアに向かった。ポロシャツの半袖から太い両腕がのぞいている。その腕は、長らくスポーツから離れているとは思えないたくましさだった。
「悠樹、お前」
そこまで言ったところで、弟はドアを叩きつけるように閉めた。
先日のインターハイ決勝で敗れた三年生の選手を思い出していた。彼が泣いていた理由が、ようやくわかった気がする。彼は本気で優勝を目指していたのだ。心から自分は優勝できると信じている時、人は銀メダルでは満足できない。
休暇の最終日、道場に向かった。部活動の休暇期間中なので、目的の相手がいるかどうかはわからなかった。
果たして、平沢監督はひとり剣道場で素振りをしていた。監督の道着は汗で濡れ、真っ黒に見えた。こちらの気配に気づいた監督は素振りの手を止めた。額には無数の汗の玉が浮いている。
「なんや」
荒い息を吐く監督の目の前で、板張りの床にひざまずき、両手をついた。
「主将をやらせてください」
額を床のすれすれまで下げた。数秒後、頭上から「土下座なんかせんでよか」という声が降ってきた。
あれから一年が経った。
国浜が大将戦で勝利した結果、妙法学園は取得本数差で団体決勝への進出が決まった。その相手が常陽高校ではないのが残念だったが、仕方のないことと割り切っていた。常陽高校は準々決勝で既に敗退している。今の俺にできることは、石坂翔の個人優勝を阻止することだけ。そして、その権利があるのは俺だけだ。
準決勝では東京の選手とぶつかった。東京の選手は全員、インターハイの主管として数年前から準備をしている。中には、東京の選手を判官贔屓する審判もいるという噂だ。そういう状況の中で勝利するのは楽ではなかったが、石坂と戦うためにはどんな障壁も乗り越えなければならない。中盤の面を守り切っての一本勝ちだった。
面紐を締め、竹刀を手に立ち上がった。ちょうど石坂も同じタイミングで立ち、足首の状態を確認していた。準々決勝で石坂が足首を捻挫したことは知っている。しかし、それは手を抜く理由にはならない。もし手を抜いて敗れれば、誰よりも惨めな思いをするのは自分なのだから。
石坂は昨年の公約を果たそうとしている。
「来年藤波くんに勝ってもう一度優勝したいと思います」
ならば自分も、一年前の誓いを守らなければならない。誰かに言ったわけではない。しかし一年前の夏、監督に土下座をしながら、俺は絶対に優勝すると決めた。だからこの一年は、願望を確信にするための一年だった。尿に血が混ざろうが、眠れないほどの筋肉痛になろうが、耐えることができた。なぜなら、自分には剣道しかないのだから。
面を被った時から、観衆のざわめきは高まりはじめた。いい雰囲気だ。
コートの向こう側、石坂の背後には緒方先生が座っている。名将として有名な緒方先生は、今年限りで監督を勇退する。石坂にとってこれは二連覇だけでなく、師の花道を飾れるかどうかが懸かっている。
俺にしても全国大会の個人戦決勝は四度目だ。大舞台の場数は石坂を凌いでいる。更にこの一年、今までにないほど真摯に稽古に取り組んできた。
前夜、監督はミーティングの後で「今の俺の心配事は」といきなり話しかけてきた。
「今後、お前以上の選手を育てることができるだろうかってことだ」
笑って応じるしかなかった。
「とにかく、怯えるなよ」
三人の審判がコートに立った。決勝ともなると審判も豪華で、三人とも雑誌で見知った顔だった。神前への礼の後、ふたりの選手はコートの中へ足を踏み入れる。三歩目で提げていた竹刀を抜き、中段に構える。半歩進めば剣先が触れ合う距離。その近さで、俺と石坂は蹲踞をした。
「はじめ」
試合開始と同時に深く入ると、石坂の剣先が僅かに上がった。そのまま竹刀をかついで小手を放ったが、これは鍔で止められる。石坂は返す刀で面を打つが、近すぎて一本にはならない。そのまま鍔迫り合いになるがすぐに離れ、今度は面に跳んだ。しかし石坂は上手く距離をとり、逆に出小手を狙う。無意識でその上に竹刀を覆い被せ、小手面を放った。石坂は首を曲げて打突を避ける。続いて俺の放った引き面が命中するが、これも軽い。
序盤からの激しい打ち合いに、観衆は沸いた。
俺の研究では、石坂は小手や胴で気を散らしつつ、高速の面で決めるのが一種の勝ちパターンだった。守りの堅い相手には諸手突きも使う。片手突きや左胴等、隙の生じやすい技はあまり打たない。奇襲はなく、正攻法が基本線と考えていい。
一方、俺は小手が最大の武器だった。伸びる面で一本を取ることもあったが、出小手、かつぎ小手、引き小手等が決まっていることが多い。自分でも気付かないうちに、吸い込まれるように小手を打っている。相手によっては奇襲作戦も使うが、石坂には通用しそうになかった。
面か突きに跳んでくることを期待し、剣先を下げて石坂を誘う。それに応じて石坂も剣先を下げ、更に半歩接近してくる。こっちは石坂の打ち気を察知していた。面に来る。読みは当たり、石坂の竹刀は頭上めがけて振り下ろされた。
それに対して素早く面返し胴を放つ。石坂の右胴を狙い通り打ち抜くが、竹刀が少し腹に逸れた。タイミングはよかったが、刃筋が正しくなかったせいで一本にはならない。確認するまでもなく、旗は上がっていなかった。決勝戦ともなると、審判も慎重になることが多い。
振り返ると、既に石坂は体勢を整えていた。まだ臨戦態勢の整っていないところに、ミサイルのような面が飛んでくる。慌てて石坂の面打ちを竹刀で受け止めた。
石坂翔が剣道サイボーグと呼ばれるのは、ポーカーフェイスだけが理由ではない。正確な打突、高校生離れした踏み込みの速さ、尽きない体力。そういった強者の条件をことごとく備えているからこそ、石坂はサイボーグなのだ。剣道をするために生まれてきた男。
状況は石坂がやや優勢だが、こういう展開が長く続かないことは経験から知っている。そのうち応じ技を放つチャンスが必ず来るはずだ。それにしても、石坂の動きはつい先ほど足首を怪我したばかりとは思えない。やはり身体が機械でできているのだろうか。
石坂翔の剣道を剛とすれば、藤波幸太の剣道は柔だ。柔よく剛を制す。いつだって最後はそうなる。