あの夏へ還る【第9回】(著/岩井圭也)

2021年10月23日 • お役立ち記事, 剣道小説 • Views: 2714

剣道には、構え方の一つに「三所隠し」と呼ばれるものがある。普通は相手に向けて真っすぐに竹刀を構えるが、三所隠しは竹刀で面と右胴を同時に守り、更に手首を内側にひねることで小手も相手から隠してしまう。面、小手、胴の三つを隠すから「三所隠し」と言われる。三所隠しは防御のための構えと言える。

当然、剣先は地面を向くことになる。これは相手を打つ気がないことを意味するため、攻め合いを原則とする剣道では反則をとられることもある。特に中学高校では三所隠しが頻発するため、審判も注意深く観察する。

審判に反則をとられずに三所隠しをするのは、今や得意中の得意だ。試合中はここぞという場面でのみ、それも一瞬だけ、三所隠しをするのがいい。たまに反則をとられることもあったが、二回目の反則をとられなければいいだけだ。反則を二回とられると相手に一本を献上することになるが、一回までなら特にペナルティはない。

三所隠しで相手に接近し、鍔迫り合いからの引き技で勝負を決める。三年生になると、このスタイルが完全に確立された。道内の大会では軒並み上位に食い込み、インターハイ個人予選で遂に優勝を飾った。

 

岩田は思っていたよりも手強かった。

渡部が言った通り、岩田は踏み込みが速く、打突に伸びがある。身体の大きさ以上にリーチがあるように見えた。遠間からいきなり打突して面まで届くとは、実際対峙するまで思っていなかった。間合いを計りつつ、慎重に岩田の打突をかわした。

遠間から跳ぼうとした瞬間を察知して、反射的に三所隠しで応じた。遠間からでは何を打とうとしているのかわからないからだ。岩田が打ちあぐねて跳ぶのを迷った瞬間に、素早く体を寄せた。主審の「やめ」は聞こえてこないから、反則とは思われなかったらしい。そのまま鍔迫り合いまで持ちこんだ。岩田が面の内側で舌打ちをしたのが聞こえた。

本領を発揮できるのは鍔迫り合いからだ。自分の両拳で岩田の両拳を強く押してから後ろにさがると、岩田は押された反動で小手を前に出した。更に岩田の竹刀を払って小手を空けさせ、そこに素早く引き小手を叩き込んだ。完璧に捉えたと思ったが、主審の旗が上がっただけで副審ふたりは旗を上げず、一本にはならなかった。

一回戦から三回戦まで、引き技でしか一本をとっていない。そのことが審判に悪印象を与えているのかもしれない。「汚い剣道をする選手には辛い判断を」とでも考えているのだろうか。ならば文句のつけようがない打突で一本をとるしかない。

岩田は遠間から小手を打ってきたが、難なく竹刀で防いだ。その後は面に来ると思って手元を上げたが、岩田はがら空きになった胴に竹刀を振りこんできた。反射的に、背後に座っている米倉先生から叱責の声が飛んできたような気がする。

「お前は普通に剣道したら中学生より弱いんだから、引き技だけ狙っていけ」

練習試合の度に言われてきたことだった。

岩田の胴はタイミングは合っていたが、打ちが浅いから到底一本にはならないだろう。そう思ったが、副審のひとりが旗を上げているのを見つけた。慌てて他のふたりを見ると、旗を振っていた。眼鏡をかけた副審は、諦めたように旗を下ろす。

いつの間にか、試合の流れは向こうにあった。

岩田は攻め合いから今度は面に跳んだ。際どいところで竹刀を受け止め、鍔迫り合いに持ち込む。もうあまりチャンスはない。ここで決めなければ、主導権を握られたままになってしまう。

再び、相手の両拳を強く押した。岩田は先ほどの引き小手が頭に残っていたらしく、小手を前に出さず、自分の胸元に引き止めた。構わず、岩田の竹刀を力任せに払い、大きく竹刀を振りかぶった。岩田は素早く竹刀を掲げて面を防ごうとする。

次の瞬間、相手の右胴に向かって竹刀が刃筋正しくめりこんだ。掛け声をあげ、残心とともに後退しながら横目で審判の旗を確認した。主審と副審がひとり、旗を上げている。眼鏡の審判は旗を振っていた。あくまで一本を認める気はないらしい。まあ、別にそれでも構わない。他のふたりが旗を上げてくれれば一本にはなるのだから。

「胴あり」

主審が宣告し、二本目がはじまった。岩田は明らかに苛立っていた。遠間からの面に切れがなくなり、半歩退いただけであっさりと空を斬った。試合の主導権はこちらに移っている。そのまま試合終了まで逃げきるのは難しいことではなかった。

竹刀を収めてコートを出ると、米倉先生に話しかけられた。長身の米倉先生は、普段から妙な威圧感を湛えている。

「制服に着替えたら、会議室Dに来なさい」

全国大会でベスト8まで進出したというのに、ねぎらいの言葉もない。

「会議室D? どこにあるんですか」

東京の体育館には馴染みがなかった。いきなり会議室Dと言われても、どこにあるのかわからない。

「俺も知らないよ。益田に呼び出されたんだ」

「益田先生って、北海道の?」

益田先生のことはよく知っている。北海道で北辰に次ぐ強豪を指導している教員だ。インターハイ予選の男子団体決勝で北辰は益田先生の高校に惜敗し、全国出場を逃している。北辰の圧勝、という下馬評が多かっただけに、主将としての落胆は大きかった。

「俺は先に行ってるから」

米倉先生の背中を見送りながら、額に流れる汗を拭った。益田先生には国体や出稽古で、何度か指導を受けたこともある。「正剣をやれ」というのが口癖だった。

防具を持って廊下に出ようとする時、岩田が壁に向かって号泣しているのを見かけた。おそらく彼も、名だたる剣道エリートのひとりなのだろう。打突の速さ、懐の深さ、攻めの正確さ。どれをとっても岩田の方が勝っていたが、試合には負けた。

剣道に、勝つことより大事なことなんてないだろ?

心の中でそう問いかけた。

 

体育館の案内板を頼りに会議室Dへ向かった。

「失礼します」

ドアを開けると、六畳ほどの狭い部屋で、長机を挟んで米倉先生と益田先生が向き合っていた。ふたりともパイプ椅子に座って腕組みをしている。益田先生の顔は見えない。米倉先生は、明らかに不機嫌そうだった。

「ここに座りなさい」

指示された通り、米倉先生の横に腰を下ろした。向かいに座る益田先生は、顔中に汗をかいていた。空調が効いているにも関わらず、ひとり脂汗をかいている。

益田先生は監督にしては若い方で、まだ三十代後半だった。現在六段。米倉先生と同様、選手としても有望な人だ。その益田先生が、思いつめたような表情で脂汗をかいている。年齢の割にかなり広い額を拭った。

「大吾も来たんだし、もう一度最初から説明してみろよ」

米倉先生は横柄な口ぶりでそう言った。益田先生は「はい」と答えて顔を上げた。

「湊くん、急に呼びだして申し訳ない」

「いえ。どうしたんですか?」

「米倉先生の指導方針について、君の意見を聴きたいんだ」

「要するに、俺の教え方が悪いって言いたいんだろ」

米倉先生が焦れたように口を挟んできた。

「汚い剣道させんなって、そういうことだろ?」

「いや、汚い剣道というのは語弊があるんですが……」

「じゃあ何だよ」

「三所隠しを容認するのは、いかがなものかと思って」

益田先生の主張はその一言に集約されていた。何となく事情がわかってきた。

「あれは三所隠しじゃない。相手の打ちを防ごうとしたら、たまたまそういう構えになるんだよ。そうだろ、大吾」

「はい」

即答した。米倉先生の発言には脊髄反射で頷くようになっている。

「それにしてはあまりに頻繁ではないですか? 反則もたびたびとられていますし。その点は米倉先生が矯正された方がいいのでは」

「お前、状況わかってるのか。総体本戦の真っ最中だぞ」

「……承知しています」

「そもそもさ、なんで益田に俺の指導をとやかく言われなきゃならんの?」

試合で負けても声を荒げない米倉先生が、声に苛立ちを滲ませてまくしたてた。益田先生の方へ身を乗り出すと、威圧感が更に増す。

「余計なお世話なんだよ」

「湊くんは素晴らしい選手です」

益田先生は汗をかきつつ、威圧に屈しようとしない。

「北海道予選で優勝し、全国大会でも準々決勝まで勝ち進んでいる。これだけ活躍すれば、全国的な知名度も相当なものになるでしょう」

「だから何だよ」

「湊くんが活躍すればするほど、彼の真似をする選手も増えるということです」

「大吾に負けろって言ってんのか!」

米倉先生は長机に拳を叩きつけた。驚いて思わず肩をすくめたが、益田先生は脂汗をかきつつも動じない。

「そうではありません。ただ、ここから先は正剣で戦ってほしいということです」

「黙って聞いてれば、何の権利があってそんなこと言ってんだ?」

米倉先生の苛立ちは最高潮に達していた。経験上、試合に負けた時でもこれほど不機嫌になったことはない。

「団体で勝ったからって、調子に乗るなよ」

「それは全く関係ありません。私は剣道の指導者として、これ以上三所隠しを容認するわけにはいかないんです。それだけです」

「だからあれは三所隠しじゃないってば」

益田先生は語気を強めて言った。

「最近の高校剣道は完全にスポーツ化しています。武道としての正しい剣道を教えなければ、いつかは伝統が崩壊してしまうんです。北海道のスターだからこそ、湊くんには美しい剣道をしてほしい」

米倉先生はこちらを一瞥し、益田先生に視線を戻した。長い息を吐いた後、少し落ち着いた口調に戻った。

「剣道のスポーツ化なんて、俺たちが学生の頃から言われてることだろ。もうとっくに伝統なんか崩壊してるんだよ」

「そんな……」

益田先生は立ち上がり、何事かを言おうとした。米倉先生はそれを制する。

「まあ聞けや。大学や社会人ならともかく、高校生にとっては正しいことよりも勝つことの方が重要なんだ。自分が高校生だった時のことを思い出せよ。胸を張って、正しい剣道をしてた、と言えるか?」

米倉先生はパイプ椅子から立ち上がった。続いて立ち上がる。

「とにかく、このタイミングで選手に変なことを吹きこむな。妨害と受け取られるぞ。これ以上こんなことをしたら、全剣連と道剣連に報告するからな」

米倉先生は部屋を出ようとした。益田先生はその背中に向かって言った。

「本当に強いのは、正しい剣道です」

何も聞かなかったかのように、米倉先生は無視して部屋を出た。それに追随し、後ろ手でドアを閉める。

タクシーをつかまえて、米倉先生と一緒にホテルまで帰った。すかさず助手席に乗り込むと、その後で米倉先生が後部座席に腰を下ろした。ホテルまでの短い道のりの間、訊いておきたいことがあった。

「質問があるのですが」

「なんだ?」

こちらからは米倉先生の表情が見えず、声だけが返ってくる。

「もし私が三所隠しをやめたら、試合に勝てないと思いますか?」

「だから、あれは三所隠しじゃない」

米倉先生はそう言いつつ、溜め息をついた。

「益田のことは気にするな。今まで通りにやるのが、一番勝つ確率が高いんだから」

黙っていると、米倉先生は身を乗り出してきた。

「迷うな」

迷いは敗北しか生まない。そのことはよく承知していた。

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