二人目 湊大吾
初めて三所(みところ)隠しをした日、視界が異常に狭く感じられた。
「もっと手首を内側に絞れ。相手に小手打たせてるようなもんだぞ」
米倉先生の叱責が飛んだ。「はい」と答えて手首を強く絞る。何度か繰り返した後、ようやく先生が「そう、それでいいんだ」と満足そうに言った。
「今の構えが、お前を全国に連れて行ってくれる」
先生の指導を受けてから三年間、俺はその奇妙な構えと付き合い続けている。
隣のコートで鹿児島の菊池が二本負けを喫したと聞いて、意外な気がした。「剣道界」で優勝候補の一角として紹介されていた有名選手が、三回戦で敗れるとは思っていなかった。
「相手は?」
尋ねると、渡部は黒縁メガネをずり上げ「待ってました」とばかりに答えた。
「石坂翔だよ」
石坂といえば昨年の優勝者であり、学年を代表するスター選手だ。菊池がいかに有力候補と言えど、相手が石坂であれば二本負けしてもおかしくない。
「どんな技で勝った?」
目の前の試合からは視線を離さず、渡部に訊く。今試合をしているのは佐賀と大分の選手だった。この試合に勝った方が、次の俺の相手になる。
それにしても九州に剣道の強豪校が多いのはなぜだろう。その対極に位置する北海道からやってきた俺には見当もつかない。
「一本目は相面。菊池が引き面打った後に追いかけて、そこをすぱーん、と」
「石坂の面、速いんだよなあ」
「速いし、打突の音が凄かった。ぼこっ、って響いてたもん。二本目は突き」
「突き?」
何度か練習試合で石坂を見ているが、突きを放ったのは見た記憶がない。
「うん、諸手突き。あれも綺麗だったな」
高校生レベルでは、全国大会に出場する選手でも突きを使いこなせる者は少ない。石坂は恐らく、その数少ない選手のひとりなのだろう。二年生で優勝した実力は伊達じゃないということか。
目の前の試合は決着がつこうとしていた。大分の選手が小手を先取し、そのまま逃げきろうとしている。最後に相手が飛びこみ面に跳んだが、あえなく防がれた。ピロピロピロ、と間抜けなブザーの音が鳴り響く。四回戦の相手が決まると同時に渡部に尋ねた。
「あの選手、知ってる? 大分の岩田」
「うん、有名だよ。去年も県準優勝で全国に出てる。去年は一回戦負けだったけど」
渡部は試合には出場しないが、練習相手として東京に来ていた。試合ではあまり勝てないが、刃筋が正しく綺麗な剣道をする。更に渡部は剣道オタクであり、同学年の有名な選手は大抵知っている。その知識が試合会場では何かと役に立つのだ。
米倉先生の視線を意識しながら、声を潜めて渡部と話した。
「岩田の剣道はどんな感じ?」
「リーチが長いけど、打ちが軽い」
「先手先手で行くタイプ?」
「そうだね。まあ、遠間からの打ちには注意した方がいいと思う」
そう言って、渡部は「湊」と記された垂れを軽く叩いてきた。
「なんだよ。いきなり股間叩くなよ」
「バカ。そろそろ面つけろって」
コートの向かい側では岩田が脱いだばかりの面を再び装着している最中だった。
「何やってるんだ、早くしろ」
背後から米倉先生の声が飛んできた。慌ててその場に正座して一礼し、面を被った。全国大会という大舞台にも関わらず、不思議と重圧はなかった。
インターハイ本戦に出場するような選手は剣道エリートばかりだと思っている。小学生の頃から地元では敵なしで、中学生になれば全国大会で活躍し、名門高校の主力選手に成長していく。そんなイメージがあるし、雑誌で紹介される一流選手の経歴はだいたいそんなところだった。だから稀に中学時代まで無名だった選手を見つけると、仲間を発見した気分になる。
剣道をはじめたのは小学四年生の頃だった。特に弱くも強くもなく、道場対抗の試合では次鋒としてたまに出場していた。得意技は面。小手や胴をまともに打つことができなかった、というのがその理由だが。
札幌市内の公立中学では、剣道部で主将を務めた。実力で選出されたわけではない。同学年にはほかにふたりの女子部員がいるだけで、「男子だから」という消去法で主将になっただけだ。消去法で選んだ主将がリーダーシップを発揮できるはずもなく、個人団体ともに全道大会へ進出することすらできなかった。
とりたてて得意な技はなかったが、引き分けに持ち込むのは上手かった。打つのは下手だが、相手の打ちを避けたり防いだりすることに関してだけは、そこそこ実力があると自負している。のらりくらりとかわしているうちに終了時間となり、引き分けに終わることが多かった。団体戦でチームがリードしている時は優位な状況のまま後ろへつなぐことができるので、引き分けでも誉められることがあった。もっとも、そのチームでは前半でリードを奪っていることは滅多になかった。
個人戦は延長の連続だった。中学生の公式試合は制限時間三分と決められていることが多いが、トーナメント形式であれば勝負が決まるまで延長は続く。個人戦では試合時間が五分や十分伸びるのは当たり前で、三十分以上試合をやったこともある。試合が終わる頃、だいたい対戦相手は体力を消耗しきっており、勝ち進んだとしても次の試合では千鳥足になっていた。
中学最後の試合は地区大会の三回戦で敗れた。例のごとく足元のおぼつかなくなった相手を見送りながら帰り支度をしていると、ある男に話しかけられた。見た目は五十歳前後。浅黒い肌をした精悍な男だった。細身のスーツが似合っている。男は張りのある声で呼びかけた。
「初めまして。北辰高校で剣道部の監督をしている米倉といいます。君、湊くんだよね」
相手は丁寧に自己紹介をしたが、言われなくても相手のことは知っていた。北辰といえば、北海道の高校剣道界では一強と言っていい存在だ。特に男子は毎年のようにインターハイや国体への出場を勝ち取っている。全道各地から有望な選手をかき集めているのは当然として、毎年活躍しているのは米倉監督の指導に拠るところが大きい。米倉が指導を受け持つこの二十年間、北辰は常に北海道の高校剣道界で先頭を走ってきた。
北海道一とも言われる指導者に声をかけられ、すっかり混乱していた。最初、米倉監督は知り合いでも探しているのかと思ったが、態度を見ているとどうやら本当に自分に用があるらしい。
「湊大吾くんだよね?」
「あ、はい」
「いきなり話しかけてすまない。高校受験はどうするつもり?」
「今のところは普通に、公立高校を受けるつもりですけど……」
「よかったらうちの高校に来て剣道をやらないか?」
しばらく、米倉の言葉の意味を飲みこめなかった。
「僕がですか?」
「そう。君は非常にいい剣道をしている。今は勝てないかもしれないが、きちんと指導すれば面白いように勝てるぞ」
剣道を心の底から面白いと思ったことがなかった。惰性で何となく続けている、というのが本音だった。
「高校で剣道をやるかどうかもまだわからないですし」
「今剣道をやめたらもったいないぞ!」
米倉に肩を叩かれた。軽く叩いただけなのだろうが、思わず二、三歩よろめいた。
「君はまだ自分の才能をわかっていないだけだ。何度か試合を見させてもらったけど、あんなにふらふらと相手の打突をかわす選手は初めて見たよ」
誉められているのかけなされているのか判断しかねた。
「君はいい意味で、引き分けの多い選手だ。打突の仕方を覚えれば、見違えるように強くなる。どうかな」
米倉はすっと右手を差し出した。
「私と三年間、頑張ってみないかい」
ここで握手を断ったらどんな目にあわされるのだろう。とりあえずここは無難にやり過ごそう。そう考えて、米倉の右手を握った。
それが地獄の鬼との契約であることなど、その時はまだ知らなかった。