九月。始業式のあった体育館から教室に戻る途中の人混みで、早速行動に移った。一般クラスの生徒と話すことができる数少ないチャンスだ。
目当ての女子生徒を見つけると、躊躇なく肩を叩いた。怪訝な顔で振り向いた女子生徒は、振り向くなりぱっと目を輝かせた。それほど華やかな顔立ちではないが、胸が大きい。その女子の手に無理やり紙きれを握らせ、「あとで連絡して」と耳元で囁き、人混みに戻った。
その日の稽古が終わった夜、携帯電話に着信があった。三畳の個室で電話に出ると、期待した通り、番号を書いた紙を手渡した女子生徒だった。彼女の声は緊張で震えていた。ちょっとした雑談の後、日曜の午後に会う約束をした。予定を確認すると、女子生徒は食らいつくような勢いで「空いてるよ」と言った。
結局、彼女と関係をもったのは三度目のデートだった。映画を観た後、カラオケボックスで事を済ませた。初めて触る女性の身体は、嘘のように滑らかだった。カラオケの料金を支払っている間も、女子生徒はずっと腕にまとわりついていた。なんて簡単なんだろう、というのが素直な感想だった。
その後も、その女子生徒とは関係を持ち続けた。公園で、大型スーパーのトイレで、衣料品店の更衣室で、身体を貪った。相手はいつでもどこでも拒否しなかった。それをいいことに、都合のいい時間に女子生徒を呼び出し、性欲を発散させることができた。
三カ月が経った頃、別の同級生に手を出した。以前と同じように携帯電話の番号を書いた紙を渡して電話をかけさせた。今度は相手の自宅、二階の彼女の部屋で事に及んだ。階下には彼女の母親がいたが、どうでもいいことだった。半年もしないうちにその女子生徒にも飽きて、今度は上級生を狙った。誰もが、驚くほどあっけなく身体を開いた。
あけすけな性生活を送る一方で、剣道部員からは優等生と認識されていた。一冊のエロ本を奪いあう同級生たちを見て、少なからず優越感を覚えるようになった。部員たちがグラビアの女を舐めるように見ている間、俺は生身の女を貪っている。やはり自分は選ばれた存在なんだ。本気でそう思っていた。
高校二年生になった頃、上級生の女にも飽きてきた。次は入学したばかりの後輩に手を出そうかと思ったが、校内で相手を探すのはそろそろ限界だった。一般クラスの女子生徒は、俺の顔を見ると眉をひそめるか、姿を隠すように逃げていった。悪い噂が広まっていることはすぐに理解できた。部員に発覚するのも時間の問題だろうが、別に構わない。剣道が強ければ、誰も文句は言えない。
ふと思い立ち、寮で自室の引き出しを開けた。ポイントカードや銀行の預金通帳に混じって、一枚の名刺が出てきた。和田美苗、と書かれたその名刺の裏には、携帯電話の番号が記されている。番号を変更していないといいのだが。電話をかけると、すぐに和田が出た。
「もしもし」
「和田さんですか。常陽高校剣道部の藤波幸太です。以前取材していただいて、大変お世話になりました」
「ああ。あの時はどうも」
和田の声音が一段と高くなった気がした。
「和田さんは今、どちらにお住まいですか」
「福岡に」
「実は、ぜひまた和田さんにお会いしたいと思って」
「それはまた……どうして」
「どうしてって」
そこでわざとらしく言葉を切った。
「出会ってから今までずっと、和田さんのことが頭から離れないんです」
駄目で元々、という意識が恥ずかしい台詞を言わせた。和田は電話の向こうでしばらく黙っていたが、やがて「いいですよ」と答えた。
「いつがいい?」
もう和田は敬語を使うのをやめていた。
「日曜の午後がいいです。寮の門限が八時なんで、それまで一緒に」
「じゃ、一時に博多駅でどう?」
当日、和田と韓国料理を食べた後、強引にホテル街へ向かった。和田は驚いていたようだが、拒否はしなかった。
正確な年齢は知らないが、二十五、六くらいだと食事中の会話でわかっていた。それまでの女子高生たちとは違い、こちらの若さをいなして手玉に取る程度には余裕のある女だった。疲弊しきった身体をベッドに沈めている最中、和田は全裸で寝転がって、自分の爪を研いでいた。
「初めてじゃないんだろ」
そう言うと、和田は噴き出した。
「そりゃまあ、初めてではないけど」
「そうじゃない」
初めて、の意味を取り違えている。
「取材相手とこういうことするの、初めてじゃないんだろ」
和田は爪を研いだまま、「まあね」と言って俺の腹に一瞥をくれた。
「すごい腹筋。亀の甲羅みたい」
「一応、週七日剣道しとう」
「今日も?」
「もちろん」
「練習で体力使い果たしたりしないわけ?」
「稽古の後はもうこれ以上動けなか、っていつも思うとよ。でも目ん前に女がいたら、我慢しきらん」
和田がふっと息を吹きかけると、爪の先から研磨された粉が飛んだ。
「依存症ね」
高校二年の夏、福岡個人予選で優勝を果たした。もう福岡で優勝するのは何度目か数え切れないほどだ。二年生で激戦区福岡を制したことで、更に注目を集めた。その夜、電話で美苗に優勝を報告した。
「インターハイの本戦はどこでやるの?」
「岡山」
「いつ?」
「八月の前半」
「私も応援に行っていいかな」
美苗は交際相手ではなく、体のいい性欲のはけ口だった。だから試合会場へ応援に来ることは遠慮してほしかった。
「そいは厳しいな。岡山ではずっと監督と一緒やし、美苗と会う時間もなか」
何度目かのデートで、相手から姓ではなく名で呼ぶよう、告げられた。お願いというよりは、一方的な宣告だった。
「本当に時間ないの?」
美苗は退かなかった。最後はこっちが折れる形で、「来たければ勝手に来ればよか」と言った。美苗は「時間とれそうなら連絡ちょうだい」と告げて電話を切った。
本戦当日、中学の時に比べて格段に強くなっている自分を発見した。技術や体力の問題だけでなく、精神的にも強くなっている。二回戦では相手に一本先取されたが、落ちついて取り返し、延長戦で勝ちをもぎ取ることができた。中学三年の大会を再現しているような気分だった。あの時も、跳べば一本になった。
時間はないと言ったものの、美苗のことは気になった。時おり試合会場で探したが、見つからなかった。ホテルの部屋から電話をかけたが、美苗は出なかった。
最終日、遂に俺は準決勝まで勝ち進んだ。あと二つ勝てば、高校二年生で日本一になってしまう。どこまで恵まれているのだろう。才能とは残酷なものだ。とことん恩恵を受ける者と、どれだけ努力しても運命に微笑まれない者とを明確に分けてしまう。自分が高慢だとは思わなかった。ただ、それが人生というものだと思っていた。
相手は神奈川代表の三年生。強い選手だった。容易に一本を取ることができなかったが、じっくりやれば負けることはないだろうと思っていた。なぜなら、相手の剣道には才能が感じられなかった。
しかし結局、俺は敗れた。延長にもつれこんだ試合は、出会い頭の事故のような相面で終止符を打った。面に跳んだところに、相手もたまたま跳びこんできた。相手の方が、一瞬だけ踏み込むのが早かった。それだけのことだ。敗れたが、悔しさはあまりなかった。負けてもさして悔しくないのは、いつものことだ。
決勝で、神奈川の選手は大阪の二年生に負けた。時間内にストレートで二本を取られ、圧倒的勝利を許した。石坂翔という二年生は、表彰式で俺をじっと見ていた。気味が悪い。そう思いつつ、初めての感情に襲われていた。
こいつにだけは、勝てないかもしれない。
実際に試合をして勝つか負けるか、という次元の話ではない。仮に百回試合をしたとして、何度かは勝てても、トータルで勝ち越すことはきっと不可能だろう、というレベルのこと。地力の問題。そう思わせるような威圧感を、石坂翔は湛えていた。
表彰式の後でトイレへ行くと、個室からうめき声が聞こえてきた。ドアは開け放たれたままだ。そこでは、準優勝の三年生が壁に何度も額をぶつけながら泣いていた。額をぶつけるたび、首からぶら下がった銀メダルも壁に当たって音を立てた。
なぜか、その光景に強く惹き付けられた。彼がどうして泣いているのか、まったく理解できなかった。全国二位と言えば十分すぎる成績である。一回戦敗退でもあるまいし、なぜそこまで悔しいのか。
結局、岡山で美苗と会うことはなかった。その後電話をかけても出ず、向こうからの着信もなくなった。