あの夏へ還る【第20回】(著/岩井圭也)

2022年1月8日 • お役立ち記事, 剣道小説 • Views: 1610

神の存在は信じていない。しかし、自分が選ばれた存在だという認識は幼い頃からずっと持っていた。恵まれているのは容姿だけではない。剣道の才能に関しても、日本有数だという自信があった。

剣道をはじめたのは小学三年生の時だった。当時仲のよかった友人の影響だ。ある日友人を遊びに誘うと、「その日は剣道の稽古があるから行けんと」と断られた。剣道、という聞き慣れない言葉に興味をもち、友人の誘いもあって剣道をはじめた。父は新聞社の社員で、母は専業主婦。ふたりとも剣道経験はないが、習い事をしたい、という熱心なおねだりに負け、道場通いをさせることを決めた。

当初、両親は一年もてばいい方、と思っていたらしい。しかし一年後、既に上級生たちを差し置いて、道場の団体戦で大将を張っていた。道場に通う三十人ほどの小学生の中で、敵う者は誰もいなかった。近隣の剣道教室と練習試合をしても、一度も負けなかった。

小学五年生で、福岡県大会個人の部で優勝を飾った。更に全国大会でもトーナメントを勝ち進む。あっけないほどの勝利の連続だったが、母にとっては一試合一試合が緊張の連続だったという。準決勝で敗れた瞬間、母はようやく安堵の溜め息をつくことができた。

剣道をはじめてたった二年の藤波幸太と、互角に戦える小学生は全国でも数えるほどしかいなくなった。「剣道の天才」「十年に一度の神童」と言われたこともある。

翌年の県大会でも優勝した。母にとって二度目のトーナメントは、慣れているぶん前年に比べて気は楽だったらしい。しかし勝ち進むにつれて緊張は高まり、決勝戦では緊張が頂点に達した。そして再び決勝で敗れた瞬間、今度は安堵の溜め息ではなく「ああっ、また!」という叫び声が漏れた。母の声はコートの中からでも聞こえた。ごめんね、お母さん。また優勝できなかった。

表彰式で銀メダルを首にかけられながら、観客席の母の姿を探した。母の姿はなかった。実際は化粧室に立っていただけだったというが、その時は母が失望して消えたのだと思った。閉会式が終わっても、ずっと母を探し続けた。

決勝戦で敗れたこと自体は、実はそれほど悔しい出来事ではない。なぜなら、特に剣道のことが好きではなかったから。試合に勝っても負けても、特別な感情は湧かない。ただ、勝てば両親が喜ぶ。その顔が見たいだけだった。特に母は、いつも試合に顔を出してくれた。優勝すれば「お疲れさま」と言って笑顔を見せた。

当時は自分が剣道に強いというより、「みんなどうしてこんな簡単なことができないのだろう」という実感の方が強かった。剣道の本質など、ただ相手の空いている面や小手に竹刀を振り下ろすだけだ。竹刀の振り方や踏み込み方には確かにコツがあるが、それだって難しいことじゃない。なぜ他の人はそれだけのことができないのか、不思議でならない。別に厳しい稽古をする必要はなく、ただ試合で相手に面や小手を打つだけ。俺にとって剣道は、命懸けでやるようなものじゃなかった。

ひとつ下の悠樹が剣道をはじめたのは、同じく小学三年生だった。弟は冷めた兄とは対照的に、向上心の塊だった。稽古には休まず通い、よく自主的に練習していた。

しかし悠樹はあまり剣道の才能に恵まれていなかった。小学五年生になっても、全国大会どころか市大会でも入賞できずにいた。

悠樹が中学一年生の頃、アドバイスを求められたことがあった。中学生になっても大きな成長がなく、焦っていた。悠樹のことを気の毒に思ってはいたが、助言の仕方がわからない。一生懸命考えた末、「空いているところを打て」と言った。

「バカにしとう」と言ったきり、以後は剣道の話をしなくなった。結局、悠樹は中学一年で剣道をやめた。

 

中学でも活躍は続いた。公立校だが県内でも有力校のひとつだった。一年から大将として試合に出場し、恐怖の一年生部員として九州に名を轟かせた。九州は全国的にも剣道が盛んな土地だが、その中でも中学生では頭ひとつ抜けた存在だったと自負している。

中学三年の時、当然のようにキャプテンに選ばれた。二年では準優勝止まりだった福岡個人予選も、三年時には優勝した。団体戦は準優勝止まりで全国進出には一歩届かなかったものの、「個人では全国優勝しろよ」と監督や同級生からはっぱをかけられた。

その全国大会でも、決勝までは圧倒的な強さを見せつけた。大会後の「剣道界」では「打てば旗が上がり、跳べば一本になる」と評されていた。しかし結局、準優勝に終わった。この頃から、忌々しい「無冠の帝王」という二つ名がつけられるようになった。

平沢監督には中学一年の頃から熱心な勧誘を受けていた。表彰式でまたも首に銀メダルをかけられた直後、平沢監督から「一緒に優勝を味わおう」という殺し文句を告げられ、常陽高校への進学を決めた。同じような台詞はそれまでにも言われたことがあったが、現役の錬士七段であり、全国有数の強豪を率いる平沢監督が口にしたことで、優勝という言葉が約束された未来のように感じられた。

高校進学後は寮生活を送ることとなった。入寮時、まずは一年生レギュラーの座を掴むことを最低限の目標とした。

常陽高校剣道部の寮生活は厳しい。早朝五時半に起床し、六時から一時間の朝稽古。七時から八時に朝食をとり、徒歩三分の校舎で午前中は授業を受ける。午後は二時から四時まで稽古。その後も半数以上の部員が六時頃まで自主練習やトレーニング、防具の手入れを行う。門限は七時。夕食は五時から八時の間。希望すれば夜食も食べられる。消灯は夜十時。

六月のインターハイ福岡予選では、入寮時の目標を達成することができなかった。補欠には選ばれたが、試合に出場することはできず常陽高校は県三位に終わった。上位入賞と言えば聞こえはいいが、全国に出場できなかったのだ。平沢監督にとって優勝以外はすべて敗北だった。補欠として応援するだけの大会は、ひたすら退屈だった。

練習メニューは過酷さを増した。下関で行われた合宿では、部員が稽古後に吐きに行くのは日常茶飯事だった。嘔吐だけでなく、毎日痛みに耐えながら血尿を出した。どうしてこんなに辛い目にあわなければならないのか、と四泊五日の間自問し続けた。

 

盆休みに短い帰省休暇が与えられた。寮から実家までは電車で片道一時間程度だが、他の部員のように週末ごとに帰ることはしていなかった。頻繁に実家に戻ると、里心がつきそうで怖かったのだ。

久々に会う父や母や姉は丁重にもてなしてくれた。夕食にはすき焼きや寿司など、食べきれないほどのご馳走が出された。雑誌の取材を受けた話をすると、姉は大仰に驚いた。両親には既に報告していたが、姉には話していなかったのだ。「なんで私に言ってくれんと?」と怒る姉を、父母は笑いながら宥めていた。一家団欒、と言っていい食事風景だった。しかしその席に弟の姿はない。

「悠樹は?」

訊くと、三人は気まずそうに顔を下げた。しばしの沈黙の後、姉が苦しそうに答えた。

「今朝ふらっと出ていったきり、戻ってこんと」

「戻ってこん? 心配やないと?」

「いつものことや」

母は諦観を滲ませてそう言った。父は最初から悠樹について何かを言うつもりはないらしく、ただ黙って焼酎を傾けていた。

「幸太、彼女できたと?」

姉が場をとりなすように問いかけた。

「そんなもんできんよ。毎日剣道しとるし」

「クラスに好きな女の子とかおらんと?」

「クラスには男しかおらん」

常陽高校の剣道部員は、揃って体育科に所属している。普段一緒に授業を受けているのはスポーツ推薦で入学した生徒ばかりで、全員が何らかの部活動に所属していた。一方、一般科の生徒たちはほとんどが部活動に所属せず、学習塾に通っている。一般科は半数が女子だが、体育科には女子はひとりもいない。体育科に所属するというのは、男子校に通うようなものだった。

悠樹が帰宅したのは十一時頃だった。ちょうど、リビングでひとりテレビを見ていた。父母は既に就寝し、姉は自室に引っこんでいた。悠樹は何も言わずにリビングまでやってきて、ソファに寝転んでいる俺の顔を見るなり薄笑いを浮かべた。

「珍しい人がおるわ」

見たことのない出で立ちだった。黒いだぶついたTシャツを着て、明らかに太すぎるジーンズを履いている。ジーンズの裾は床に引きずられているせいで擦り切れていた。Tシャツの胸には愛らしい鳥のキャラクターが描かれていたが、その股間には巨大なキノコが描かれている。悪趣味なデザインだった。

「こんな時間まで何しとうと?」

「夜遊び。お前も家族と同じようなこと言いよるな」

「お前やと?」

「もう兄ちゃんっていう年齢でもなかろ」

悠樹はにやにや笑ったまま、カーペットの床に腰を下ろした。

「なあ、剣道面白いか?」

悠樹は痩せた身体を床に横たえた。その顔は自分によく似ている。母譲りのくっきりとした二重まぶた、細い鼻筋、薄い唇は、学校の女子生徒から憧れの眼差しで見られることが多いだろう。俺がそうだったのだから、よくわかる。

「面白くなかったらやっとれん」

「嘘やな。お前は義務感だけで剣道をやっとう」

これ以上相手をしてもいいことはない。そう判断し、リビングから去ろうとした。ソファから立ち上がりかけたところで、悠樹が更に声をかけてきた。

「俺が今日、どこ行っとったと思う?」

「知らん」

「女の家。ずーっとヤッとった。昼から晩まで」

その一言に、つい興味が湧いた。中腰のままソファから立ち上がれなかった。

「母ちゃんや姉ちゃんは知っとうと?」

「言う訳ないやろ。今日は女子大生とゴムなしで三発やりました、なんて、報告するアホおらんやろ」

悠樹の口から次々に飛び出す赤裸々な単語に、動揺していた。声変わりが終わったばかりのかすれた声で、悠樹は情事の内容を事細かに喋りはじめた。

「変態やと。中学生か高校生くらいの、年下の男とばっかり付き合うとる女。中学校の文化祭で、向こうの方から声かけてきた。次会った時には家誘ってきて、即。今日もホテル入ってまず一発、シャワー浴びて一発、飯食ってもう一発。大変や」

女っ気に飢えていた俺には、あまりに刺激が強かった。生唾を飲み込み、悠樹の話に聞き入る。その後も悠樹は十分近く、自分の性生活について話し続けた。ひと通り話した後、悠樹は挑発するように顔を覗きこんでくる。

「お前ももう十六なら、これくらいの経験しとると?」

何も言えなかった。異性との交際はおろか、手をつないだこともなかった。寮の先輩や同期から借りるエロ本が、性生活のすべてだった。それも剣道のため。

「意地悪な質問やったな。じゃ」

勝ち誇った表情で、悠樹はリビングから立ち去った。

ソファに座り、興奮を押し殺していた。股間は熱くなっている。頭にはある計画が浮かんでいた。夏休みが明けて学校がはじまれば、試してみよう。

大丈夫、俺は選ばれた人間だ。

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