四人目 藤波幸太
会場の冷房がききすぎている。身体が冷えるのを防ぐため、フリースのジッパーを首元まで上げた。
目の前で大将として戦っているのは石坂ではなく、普段は副将を務めている国浜だった。妙法学園とは練習試合をしたことがなく、国浜と竹刀を交わしたこともない。
練習試合をしてこなかったのは監督の方針ではなく、不運が重なったせいだった。平沢監督は、常陽高校が全国優勝するうえでの最大の障壁は妙法だと、常に言っている。そのため何度も練習試合を設定し、福岡から大阪へ向かう計画を立てた。しかしそのたびにトラブルが発生した。ある時は監督が食中毒で入院し、またある時は爆弾低気圧が発生して未曾有の大雪が降り、交通機関が麻痺した。そんなことがあるたび、部員たちで「妙法は呪われてるな」と冗談を飛ばしたりした。
極めつけが昨夏の不祥事だった。常陽高校は剣道部以外にも全国的な強豪として知られる部活動があるが、ある強豪部活動で飲酒が常態化していることが昨年の夏、マスコミに取り上げられた。常陽高校のすべての部活動は、練習試合を含めた対外試合を無期限自粛する事態となった。いくつかの部活動から猛抗議の声が上がったが、世論には勝てなかったらしい。結局、剣道部もほとぼりが冷めるまで自粛することとなった。呪われているのは自分たちの方だった。
いや、もしかしたら。国浜がしなやかに面を打ち込む姿を見ながら思った。
呪われているのは俺ひとりなのかもしれない。
「無冠の帝王」と呼ばれていることは知っている。ただ、自分が依然として高校生の中ではずば抜けた存在だという自負もある。団体では幾度となく優勝を飾っている。全国個人は優勝経験こそないものの、決勝に三度進出している。小学六年、中学三年、高校二年。決勝での勝率ゼロという屈辱が「藤波幸太は勝負弱い」という印象を与えているのは間違いない。加えて昨年石坂翔が優勝したことで、藤波幸太というブランドの価値は大幅に下がった。
昨年までは同学年のみならず、前後一年ずつを加えた三学年でも自分が最も剣道が強いと思っていた。全国大会の決勝に三度も進出している選手は他にいなかったし、周囲からちやほやされていたことも大きな要因だった。高校生になった頃から、女性向け雑誌やウェブマガジンからの取材が舞い込むようになったのだ。
初めての取材は高校一年の夏休みだった。稽古前、唐突に監督から言われた。
「藤波。お前は防具つけなくていい。ちょっとこっち来い」
平沢監督が部員を呼びだすのは、大抵叱りつける時だった。怯えつつ道場を出ると、そこには監督と並んで二十代後半の女性が立っていた。美人だった。名刺を取り出して笑顔を作ってみせる姿が、当時は眩しく見えた。短いスカートからのぞく脚。必死で視線を逸らした。
「フリーライターの和田です」
和田と名乗った女性記者は、名刺を手渡そうとした。その名刺を横から監督が「私がお預かりします」と言いながら、なぜか不機嫌そうに奪い取った。和田は監督の存在を意に介さず、お辞儀をしてみせる。
「今日は稽古の前に邪魔してごめんなさい。これからちょっとしたインタビューをさせて欲しいんです。それで……」
「和田さん、説明は私がしますから」
監督は苛立っていた。何をそんなに苛立っているんだろう、と不思議だった。
「和田さんは先ほど紹介の通り、雑誌なんかに記事を書くライターの方だ」
有名な女子向け雑誌の名前を挙げて、藤波知ってるか、と尋ねる。
「はい」
「今日はその取材だそうだ」
その雑誌がファッション誌であることは知っていた。大学生の姉が読んでいたのを、暇つぶしで眺めたことかある。しかし「剣道界」や「剣道ジャーナル」ならいざ知らず、なぜ女性誌が自分にインタビューするのか。和田は監督の意向など気にせず、一方的に説明をはじめた。
「誌面では毎号、旬な男子高校生のスポーツ選手を取材してるんです」
「はあ」
「そのコーナーでぜひ藤波くんを取り上げさせてほしくて」
まともに読んだこともない女性雑誌の一コーナーについては知らないが、とにかく「旬な男性スポーツ選手」のひとりとして認識されたのは嬉しいことだった。背後の道場からは、準備体操の掛け声が聞こえている。三年生のキャプテンが発する声が、いつもより刺々しく聞こえたような気がした。
「今回の取材については、既に先生方からの了解ももらってます」
「先生方って……」
つぶやきながら、和田の横に立っている平沢監督を見た。監督は何か言いかけたが、和田がその前に再び口を開いた。
「取材にはあちらの教室をお借りすることになってます。それじゃあ、とりあえず一緒に教室へ行きましょうか」
道着袴のまま、促されて校舎へ歩き出す。校内だというのに、和田は先導するように歩いていた。教室につくまで、監督は終始黙りこくっていた。
案内されたのは、普段の授業では使ったことのない教室だった。社会科準備室、という名前の部屋らしいが、教室の中には机と椅子以外、申し訳程度に地球儀があるだけだった。驚いたことに、社会科準備室では生活指導部の主任と教頭が待っていた。ふたりから機嫌をとるように話しかけられ、教室中央の椅子に座らせられる。
和田が取材をはじめる寸前、背後に立っていた監督に向かって教頭が言った。
「平沢先生は剣道部の指導があるでしょう? 藤波くんの取材でしたら我々で責任をもって監督しますから、どうぞ平沢先生は剣道場の方へお戻りください」
「しかし」
「大丈夫ですから」
教頭は追い出したいという本心を隠そうともせず、真顔で言い募った。結局、監督は何も言い返せずに社会科準備室を出た。ドアが荒々しく閉じられると、急に心もとなくなる。和田は机を挟んで正面に座った。
「それじゃ、はじめましょうか」
そう言って和田がはじめた質問は、陳腐なものばかりだった。剣道に関係あるのは、どうして剣道をはじめたのか、剣道の醍醐味は何か、という二つの質問くらいで、あとは休日の過ごし方、好きな食べ物、好きな女性芸能人、女の子にしてほしいファッションなど、剣道とは縁遠い内容だった。
質問が終わると、その後は二十分ほど写真撮影が行われた。カメラマンはおらず、和田が自らシャッターを切った。指示されるまま、カメラに向かって笑いかけたり、物憂げに窓の外を眺めさせられたりした。和田がしゃがむたびに、めくれ上がるスカートの中が気になって仕方ない。一時間半も拘束され、終わった頃にはくたくたに疲れていた。
「ありがとうございました。すごくいいページになると思います」
和田は最後にまた名刺を差し出してきた。受け取るべきかどうか迷っていると、いたずらっぽく微笑した。
「さっきは顧問の先生に取られちゃったけど、やっぱり藤波くんにも渡しておくね」
名刺の裏には、携帯電話の番号も記されていた。表面に書かれた事務所の住所は福岡だ。最後に和田は一礼して、教室を出ていった。大股で歩く彼女の姿は自信に溢れている。形のよい両脚に見惚れつつ、早く道場に戻らなければ、と頭の片隅で考えていた。
部室に戻って名刺を財布の中へ大事にしまいこんだ後、道場へ走った。稽古開始から二時間が経ち、既にほとんどのメニューが終わっている。最後の掛かり稽古だけでも参加しようと道場の片隅で防具をつけていると、三年生の先輩が立ち止まった。物言いたげに俺のことを見つめている。
「おい山内、ちゃんとかかれ!」
監督に叱られ、山内先輩は思い出したように元立ちに向かって打ち込んでいった。結局、準備のための切り返しを終えたところで掛かり稽古は終了してしまった。
稽古後、監督に取材が終了したことを報告した。自明のことでも監督に報告するのは、常陽高校剣道部の決まりだ。
「稽古の時間を減らしてしまって申し訳ない」
監督から謝罪の言葉をかけられたのは初めてだった。慌てて「この後自主稽古しますので」と言った。
「これも剣道の普及のためだと思って我慢してほしい」
監督はそう言い残し、道場を出ていった。このインタビュー記事がどう普及に役立つのか、まったく見当がつかない。監督の態度から、このインタビューが学校主導のものであり、監督の意思ではないことには勘付いていた。だからこそ、監督が「剣道の普及」などという名目を口にしたことが理解できなかった。
ひとりで道場の姿見に向かって素振りをしていると、見知った人影が近付いてきた。鏡面に制服姿の山内先輩が映っている。団体戦では山内先輩が補欠で、こっちは一年生唯一のレギュラーだ。
山内先輩が以前、三年生の同期に「藤波は生意気や」と話していたのを立ち聞きしたことがある。その場にいる部員全員が聞こえるような大声で喋っていた。
振り返ると、山内先輩は出し抜けに口を開いた。
「藤波、お前なんで稽古抜けとうと」
ふたりしかいない道場では声がよく響いた。
「すいません。雑誌の取材につかまってしまって」
「それは知っとう」
知っているならなぜ訊くのか。意味がわからなかった。
「どんな雑誌よ」
雑誌の名前を告げると、ふうん、と返ってくる。
「なしてお前が女向けの雑誌に取材されとう?」
山内先輩の声音には、明らかに険が含まれていた。
「自分にもよくわかりません」
「嘘や」
「嘘ではないんです。聞かされていないんです」
「お前、本当はわかっとろう」
どう反論すればいいのかわからなかった。山内先輩は「姿見、見てみろ」と言った。言われるまま、振り向く。道着姿の自分と、制服を着た山内先輩が映っているだけだった。
「お前は顔がええから、取材されたと」
山内先輩の言葉に、何も言い返すことができなかった。
「やっぱり図星や。自分でもイケメンやとか思っとう」
無言で立ちすくむ様を見て、山内先輩は満足したようだった。
「取材されたんは剣道が強いからと違う。あんまり調子に乗んなや」
捨て台詞を残して、山内先輩は道場から出ていった。