あの夏へ還る【第8回】(著/岩井圭也)

2021年10月16日 • お役立ち記事, 剣道小説 • Views: 1226

入部当初、同期は自分を含めて八人いた。米倉先生からは、春休みのうちから部活動へ来るよう命じられた。初めて踏み入れる剣道場の床は氷のように冷たかった。

一列に並べられた新入生たちは、順番に自己紹介を行うのが北辰高校のしきたりだった。名前と出身中学と段位、これまでの戦績を大声で述べるよう、米倉先生に命じられた。新入生たちの目の前には、先輩となる部員たちが坊主頭を並べてあぐらをかいている。誰もが鋭い目つきで新入部員たちの品定めをしていた。

ひとり目が「小学六年生の時、全道で準優勝しました」と言い、ふたり目が「中学三年で全道三位です」と自己紹介をした。三人目の新入生が「中学三年の夏に全中ベスト8に進出しました」と言うと、先輩たちはどよめいた。先輩たちの間から「こいつか」という声も聞こえた。

錚々たる面子が並ぶ中で「戦績は特にありません」と言うのは屈辱だった。当然、先輩たちは誰も俺に関心を示さなかった。八人の中で目立った実績がないのは俺と渡部だけだった。渡部には似たものを感じとり、すぐに仲良くなった。

北辰剣道部は強豪校であり、練習は当然辛い。進入部員のうち俺と渡部だけは、最初、防具をつけることすら許されなかった。毎日課されるのはランニングと筋トレのみ。基礎体力が足りないから稽古に参加しても足手まといになるだけ、と判断されたらしい。校庭を三十周できるようになるまで、防具は着装禁止。それが米倉先生に与えられた最初の練習メニューだった。

校庭を走っていると、剣道場から竹刀のぶつかりあう音やかけ声が嫌でも聞こえてくる。渡部と並走しながら、内心で復讐への意欲に燃えていた。今道場で剣道をしている先輩どもと六人の同級生を、必ず見返してみせる。そう決意してからは、米倉先生から校庭を三十周しろと言われれば四十周走った。木刀を千回素振りしろと言われれば、千五百回素振りをした。

鏡に向かって素振りを続けていると、稽古を終えた同期部員が鼻で笑った。

「お前、まだやってんのかよ」

振りかぶった木刀で殴りつけてやりたかったが、一年後に稽古で打ち負かす姿を空想することで怒りを鎮めた。「今はじめたばっかりだけど」と返すのが精一杯だった。

二カ月後、稽古に参加することを許された初日に、全中ベスト8の同期がいなくなった。他の同期生に訊くと、昨日退部したという。米倉先生の指導方針に納得できずに剣道をやめてしまった、というのが退部の理由らしい。もったいない。適当に言うことを聞いていれば、すぐにでもレギュラーになれただろうに。

通常の練習メニューの他に、追加で摺り足と素振りの稽古を自らに課した。摺り足五十往復、木刀素振り五百本。筋肉痛を気にしている暇もなかった。全ては試合で勝利するため。平凡な剣道部員だったはずが、いつの間にか勝利への執念が芽生えはじめていた。

「お前が正剣で勝負して勝てるわけないだろう」

ある日の稽古後、米倉先生が面と向かって言いきった。

「普通にやっても勝てないんだから、勝ち方を考えろ」

勝利への欲求は人一倍強い自信があったが、気持ちだけでは結果が残せないことも痛いほどわかっていた。

「今から俺が言うように構えてみろ」

両手を目の前に上げて、剣先を身体の右下へ向ける。面が隠れるように、頭上近くまで竹刀を構える。面、小手、胴の三カ所を同時に相手から隠す。

「もっと手首を内側に絞れ。相手に小手打たせてるようなもんだぞ」

両腕を窮屈に折り畳みながら、内心で愚痴をこぼしていた。どうしてこんな妙な構えをしなければならないのか。そう思いつつ、言われるままに構えを修正した。しばらく試行錯誤した末に、米倉先生は満足げに頷いた。

「その構えが、お前を全国に連れて行ってくれる」

正直に白状すれば、半信半疑だった。いや、八割くらいは疑いが占めていた。ただ、剣道エリートではない自分が勝つためには、何か人と違うことをしなければならないとは思っていた。とにかくその三所隠しという構え方を稽古に取り入れてみた。

その頃は自宅で夕食を食べながら、ダイニングテーブルに突っ伏して眠るのが習慣になっていた。本当に俺はここで死ぬんじゃないだろうか、と真顔で親に語っていた。家族の中で剣道をやっているのは自分だけで、母は毎日ぼろぼろになって帰宅する息子を心配していた。三年生になってから聞いたことだが、母は一旦はじめたものをすぐにやめさせるのも教育上よくないと考え、一年間見守って状況が変わらなければ退部を勧めようと、密かに決意していたらしい。

がむしゃらに自主練習に励んでいた頃、渡部は対照的に美しい剣道を心がけた。剣道では往々にして、素直すぎる打突は相手に読まれやすく、応じられやすい。多少汚い剣道の方が相手をしづらい、ということはよくある。渡部の打突は正確なせいで、部員から「応じやすい」「相手をしやすい」と評されることが多かった。評判通り、部内試合ではなかなか勝利することができなかった。

一年後には更にひとりが退部し、同期は六人になった。この頃から、米倉先生から徹底して引き技を叩き込まれた。普通の打突では前方に打って前に進むが、引き技では鍔迫り合いから一歩退いて打突後、摺り足で後退していく。毎日鍔迫り合いからの引き面、引き小手、引き胴だけを一時間以上練習した。もちろん素振り、掛かり稽古、地稽古等にも参加する。一時間以上の自主練習に付き合ってくれるのは、いつも渡部だった。ほかの部員は相手をする体力も気力も残っておらず、大吾につかまる前に帰ろう、というムードが流れていた。

米倉先生が教えた試合の運び方はこうだった。

「大吾は相手の打突をかわすことには極めて優れているが、打突に関してはお世辞にも上手とは言えない。だから中間では打突を避けることに専念して、引き技だけで勝負をする。徹底的に引き技だ。一足一刀での攻め合いや打突ではどうしても長年修練を積んできた者には勝てないが、引き技だけにこだわれば勝機はある」

二年生になった頃から、練習試合でその戦法を実践することになる。最初は相手の打突を防いでいるうちに一本を取られたり、引き技を繰り出すタイミングを間違えて逆に引き技を打たれたりしていた。そういうミスをしても、米倉先生は絶対に声を荒げたりせず、なぜ打たれたかを冷静に指摘する。

「教えられたことは、その日のうちに直せ」というのが、米倉先生の口癖だった。練習試合で負けた部員には、いつもの二倍の練習量を課す。部員からは「大盛り稽古」と呼ばれていたが、三年間で歴代部員の誰よりも多く大盛り稽古をこなした自信がある。

二年の夏頃から、急に試合で勝てるようになってきた。理由はよくわからないが、渡部曰く、強い選手にはそういう時期が必ず訪れるらしい。相手は引っかけに面白いように騙されてくれるから、そこに面や小手を叩き込むだけだった。少しずつ、部員たちの見る目が変わっていくのがわかった。

インターハイ団体予選では、三年生たちがレギュラーを独占するなか二年生でただひとり副将として出場した。チームは北海道で優勝を飾り、本戦でも予選リーグ突破を果たした。

本戦が終わって三年生が引退した翌日、米倉先生は稽古前に道着姿の部員たちを集めた。

「今日からは大吾が指揮をとる」

誰からも異論はない。

米倉先生に「次期主将、挨拶しろ」と言われた。すぐに立ち上がって部員たちに向き直り、考えていた台詞をゆっくりと口にした。

「私は北辰剣道部を、勝てる集団に変えていくつもりです」

居並ぶ部員たちの頭頂部を眺めながら、内心では感極まっていた。華麗な経歴をもつ剣道エリートたちを出し抜き、一年半で名門校の主将にまで上りつめた達成感は素晴らしいものだった。

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