二回戦でも相手をうまく誘いに乗せた。野村は頭一つ身長が高いうえ、上段を取る。普通に跳んでも竹刀は小手に届かない。打突を決めるには、何らかの策をとる必要があった。
上段の相手には突きを攻めて小手が下がるのを誘うのが定石のひとつだが、そのやり方には直感的に不安を覚えた。実際の距離以上に、野村の突き垂れが遠く感じたせいだ。突きで誘うのはやめて、相手に面を打たせることにした。
剣先の延長線上に野村の小手がくるように構え、気合を発した。野村はまず面を見せた後、すかさず軌道を変えて小手を狙ってきた。落ちついてこれを竹刀で受け、返す刀で野村の面を打突する。もしかしたら決まるかも、と思ったが、旗は一つも上がらなかった。
ただし、この面は伏線にもなっている。
「近間から小手を打つよりも、遠間から面を狙った方がいい」
こう考えた野村は、急に慎重になった。遠間から面を狙うタイミングを計り、こちらが焦れて小手に跳ぶのを待った。そろそろ試合終了かという頃、剣先を大きく揺らした。反射的に野村が面を打った瞬間、竹刀が野村の左小手を鋭く打った。野村は焦らしていたつもりかもしれないが、焦れていたのは野村の方だったということだ。
「小手あり」
残り数十秒間、相手の猛攻を防ぎ切って一本勝ちを収めた。
***
三回戦まで進出したことで、顕介のベスト8入りは俄然現実味を帯びてきた。あと二つ勝てば、剣道をやめてしまう。
顕介は廊下の床にあぐらをかいていた。イヤフォンから流れる音楽を聴きながら、じっと俯いている。高校生になってから、試合前には音楽を聴きながら集中するのが習慣になっていた。どんな音楽を聴いているのか守は知らない。
所在なさげに立っていると、見知った顔に話しかけられた。福岡の高校で監督をしている平沢だった。
「菊池先生、お久しぶりです」
平沢は爽やかな笑みを作った。自分よりひと回りほど若い教師だ。喋り方は体育教師にふさわしくはきはきとしている。
「ああどうも。九州大会の時は挨拶でけんかったけど」
「とんでもないです。強いですね、顕介くん」
平沢は少し離れた場所にいる顕介を見やった。本人は話題になっていることに気づいていない。
「高校最後だしね。本人としても気合が入ってるんでしょ」
「菊池先生が羨ましいですよ」
平沢が出し抜けにそんなことを口にしたので驚いた。
「どういうこと?」
「息子さんが剣道を続けてくれることがですよ」
「まあそうですね」と答えながら、つい苦笑してしまった。
「僕の息子は結局中学でバスケにいっちゃったんですよ。まあ親としては、息子には自分の好きなことをやって欲しいとは思いますけどね。そう思いつつ、やっぱりね、ちょっとがっかりしました」
平沢のシャツから伸びる両腕は、太くたくましい父親の腕だった。相槌を打ちつつ、密かに自分の腕と見比べてみる。
「娘なんか剣道に見向きもしないし。寂しいですよ」
「うちの娘もですよ。しかしまあ、教え子だって息子のようなもんでしょう」
「そうですねえ。やっぱり長いこと教えてると、情は湧きますね」
平沢の教え子も、個人戦に出場している。藤波というその選手も、三回戦まで勝ち進んでいたはずだ。
顕介が耳からイヤフォンを外した。立ち上がって、おもむろに屈伸運動をはじめる。
「じゃあそろそろだから」
「あっ、すいません、お邪魔して」
簡単に挨拶を済ませて、平沢と別れた。
順調に勝ち上がれば、顕介と藤波は決勝で当たる。顕介と藤波の試合を見たくない。決勝まで勝ち上がることは、顕介が剣道をやめてしまうことを意味しているからだ。そう思ってしまった自分に嫌気が差した。
顕介が四歳の時。家族四人、父の実家で年越しを過ごした。まだ母が存命中で、ふたりが鹿児島市内に住んでいた頃のことだ。
正月の夜、親戚がいなくなった後で、父とふたりで酒を飲んだ。既に顕介は床に就き、母は宴会の片づけをし、妻は一歳の娘を寝かしつけていた。
「顕介にも剣道やらすのか?」
父の問いかけに、「そんつもり」と答えた。こたつに座って熱燗をすすると、襖の向こうから娘の泣き声が聞こえた。重箱から大根のなますをつまみ上げ、口に入れてみる。なます独特の酸っぱさは、日本酒のあてには向いていなかった。
「顕介はやりたいって言うてるか?」
口の中に更に酸味が広がった。
「まだやりたいとかやりたくないとか、判断でくっ歳じゃね」
「じゃったら、そげな歳になるまで待ったらどうだ?」
「そん必要はない。はじめるなら一歳でも早え方がよか」
父は「お前の息子じゃっで、お前の好っなように育てればええけど」と前置きしたうえで、こう言った。
「顕介がやめたい、言ったら、やめさってやれ」
無言で頷いたが、その実、父の言葉を真剣には受け止めていなかった。
「薬飲んでくる」
そう言い残して、父はこたつから立ち上がった。父が台所でコップに水を入れる姿を見ながら、父の実家に来れるのはあと何回くらいだろう、と考えた。
***
イヤフォンを外すと、耳を覆っていた歌声が消え、試合前特有の静寂に包まれた。緊張を振り払うように立ち上がり、屈伸運動をしてみる。他校の監督と話していた父が近付いてきた。
「そろそろ行くか」
何も言わずに防具と竹刀を持ち、試合会場に足を踏み入れた。第二コートには既に対戦相手の姿があった。床に膝をつき、試合の準備をはじめる。
三回戦の相手は大阪代表の石坂翔。前年度優勝者である。
昨年、石坂は上級生を蹴散らしてトーナメントを勝ち上がり、決勝でもストレートの二本勝ちを演じた。しかし優勝者インタビューで、石坂の顔に笑顔はなかった。事実、石坂はそのインタビューで「喜びはありません」と発言した。そのせいで、彼は一部の指導者から不興を買っている。
いつからか、石坂には「剣道サイボーグ」というあだ名がついていた。
公式戦で石坂と戦うのは初めてだったが、稽古では何度か手合わせしたことがある。踏み込みが恐ろしく速く、特に面打ちが異常に速かったことを鮮明に覚えている。二回戦までの相手とは格が違う。
石坂と戦うにあたり、決め技として面返し胴を狙うことにした。石坂の剣道は、矢のように速い面を中心に構築されている。決め技の面があるからこそ、小手や胴も活きてくる。石坂を相手にする時は、中途半端に恐れるのが一番よくない。だからあえて石坂に面を打たせ、そこを応じて返し胴を打つ、という作戦を立てた。
垂れと胴を身につけ、面を被った。面紐をきつく締め、小手の具合を確かめて立ち上がる。コートを挟んで向かい側にいる石坂は、まだ面をつけていない。何の迷いも見えない瞳で、じっと自分の手元を見つめていた。
石坂の頭は青々とした五厘刈りだった。見つめていた手のひらでその頭を撫でてから、面を被せる。それを見ながら、言いようのない不安を覚えた。
ほんの一瞬だけ、負けるかもしれない、と思った。
弱気を追い払うように、混み合う会場で四股を踏んでみた。すぐ隣に立っていた他校のマネージャーらしき女子生徒が、びくっと肩を震わせた。
その日は初めて自分のためだけに試合をしようと決意していた。今までは、チームメイトのため、応援に来てくれる人のため、そして誰よりも父のために戦ってきた。しかし今日だけは違う。自分の進む道を決めるため、自分のためだけに試合をするのだ。