あの夏へ還る【第17回】(著/岩井圭也)

2021年12月18日 • お役立ち記事, 剣道小説 • Views: 1208

試合がはじまった。相手は東海チャンピオンの桜井という選手だった。桜井は高い身長を活かした遠間からの打突を軸に、距離感に緩急をつけて打突を放ってくる。上手く腕を折り畳み、近間でも技を繰り出す。

桜井よりも上背はないが、それを補う跳躍力はある。剣先を喉元から胸元に下ろして、そのまま真っすぐに諸手突きを放った。桜井は二歩以上の距離をとっていたが、渾身の踏み込みでその間合いを消し去る。剣先が桜井の突き垂れにめりこんだ。

旗が二本上がり、主審が突きあり、と宣告した。副審のひとりは旗を振っている。今頃緒方先生は、「あの副審、どこの誰やねん。しっかりやれや」などと小声で毒づいているだろう。教え子への間違った判定には、断固として納得しないのが先生だ。

二本目がはじまってからは守勢にまわった。この一本を守り切れば準決勝に勝ち進める。桜井は落ちついて遠間から反撃の機会を狙っているように見えたが、丁寧に応じればどうということはなかった。面や小手への打突をことごとく打ち落とし、なぎ払う。

そろそろ時間だろうか、と思った瞬間、桜井が面に跳んだ。脇が甘い。すかさず面返し胴に出た。面を竹刀で受けて、流れるように胴を打ち抜いたと思った瞬間、それを防ごうとした桜井が体当たりを食らわせてきた。身体のバランスが崩れ、右足首が直角に曲がるのが見えた。そのままフロアに倒れこむ。

手からこぼれ落ちた竹刀はコートの隅に転がり、その先に立っていた主審が「やめ」と声をあげた。起き上がろうとしたが、床に少しでも体重をかければ、針で刺されたように右足首が痛む。小手をはめた手で右足首を揉んでみた。みるみる腫れていくのがわかる。

「大丈夫か」

近づいてきた主審に見えるよう、足首から手を離した。上体を起こし、左足だけで立ち上がる。右足をかばった奇妙な歩き方で、転がっている竹刀を拾い上げた。足首の状態はかなり悪い。骨折ということはないだろうが、ひどくひねっている。右足を浮かせながら開始線まで戻った。桜井は平然と患部を見下ろしている。

「かなりひどいんじゃないか?」

主審は心配げな声音で問いかけたが、構わず「平気です」と答えた。ここで試合を中断すれば、不戦敗扱いになってしまう。そうなれば、決勝で藤波と対戦することも適わない。それだけは避けたかった。

ふたりの副審も近づき、右足首をのぞきこんだ。

「本当に大丈夫ですから」

平気さをアピールするため、何度か右足で踏み込んでみせた。そのたびに内側から刺すような痛みが走る。

結局、三人の審判は所定の位置に戻った。再び竹刀を構える。残された試合時間は一分もない。傷ついた右足で持ちこたえることができるだろうか。やってみなければわからなかった。悠然と構えている桜井に、主審が近付き、何事かを言い含めた。

「反則とれよ、反則!」

妙法学園の応援席から、声高に野次が飛んだ。確かに、桜井の体当たりは反則を取られてもおかしくない。しかし主審は口頭注意のみで済ませた。桜井は儀礼的に頭を下げる。

「ちゃんとやれよ」

応援席ではぼやいている者がいる。選手の保護者だろうか。こちらとしても同じ意見だったが、それを口にすることはできない。

試合中に怪我をするのは久しぶりのことだった。三年生になってからは初めてだ。右足を床につければ痛むので、体重を心もち左足にかける。そのような不自然な構えでは、本来の打突を繰り出すことはできないだろう。摺り足だって、どうしても遅くなる。なにも一本とる必要はないのだ。とにかく桜井に一本とられないこと。

「はじめ」

試合が再開した。桜井は一気に間合いを詰め、面に跳んできた。足を動かさず、腕だけで竹刀を受け止める。桜井が次々と繰り出す打突に、棒きれのように突っ立ったまま応じるのは難しかった。ほとんど足を動かすことなく、ぎりぎりのところで打突を捌き続ける。妙法学園の応援席から声援が止んだ。きっと誰もが息を詰めて見守っている。

桜井が小手に跳んだ。反射的にそれを竹刀ですり上げ、面を打とうとした。しかし踏み出した右足は、軽く地面に触れただけで無言の悲鳴をあげた。歯を食いしばるが痛みには耐えきれず、やむなく腕力だけで打った面は相手の面金をこすっただけだった。当然、旗は一本も上がらない。右足を地面に着けた瞬間、苦痛に顔を歪めるのを緒方先生に見られたかもしれない。恥ずかしいが仕方ない。すべては藤波と戦うためだ。

その時、試合終了の合図がかけられた。何とか持ちこたえ、準決勝進出が決まった。妙法学園の応援席から爆発するような拍手が巻き起こった。

ひとまず安堵したが、次の試合に出られるかどうかはわからない。個人団体ともに決勝まで進めば、あと六試合。個人が二試合に、団体が四試合。すべて出場すれば足首はどうなるだろう。そんなことを考えながらコートを出ると、緒方先生は決意したように口を開いた。

「まさか折れてへんやろな?」

「大丈夫です。捻挫です」

コートを出た瞬間、後輩たちに両側から担がれた。部員のひとりが救急箱からテーピングや包帯を取り出し、右足首に巻きはじめる。

「いいから、自分でやるから」

群がる後輩たちを制して、自分で足の手当てをはじめた。

「国浜」

緒方先生は少し離れたところで見ていた副主将を呼んだ。国浜の顔には相変わらず薄い笑いが貼り付いている。

「お前、大将できるか」

「はい。やらせてください」

即答だった。国浜は青々とした五厘刈りの頭を下げた。

まだできます、私を出してください。その抗議の言葉をかろうじて飲み込むことができたのは、先生の意図がわかったからだった。

先生がこちらのプライドを理解していないはずがない。二年生の時から大将を務めてきた石坂翔にとって、最後の大舞台で出場できないことがどれほど悔しいか、わからないはずがない。しかし先生としては、何としても最後の教え子たちを優勝させたいはずだ。そのためには補欠の一番手を出場させ、国浜を大将に回すのが最上策だと判断したのだ。

「石坂。お前はもう団体戦は無理や。個人に集中しろ」

反論はできなかった。静かに「わかりました」と答えた。

緒方先生は他の部員には聞こえないような小声で「すまんな」と言った後で、ひと言付け足した。

「でもお前やって、二連覇したいやろ」

当然。黙って頷いた。

 

痛む右足首をさすりながら、自分が出ない団体戦を見ている。いつぶりだろうか。大将の場所には国浜が座っている。やはり、あの挑発するような笑みを浮かべていた。

試合は先鋒から副将までで、互いにひとりが勝ち、ひとりが負けていた。勝負は大将の結果で決まる。国浜の動きは冴えていた。特に今日は調子がいいような気がする。得意技の相面を奪った後、立て続けに小手面で仕留めた。観客席が湧いた。

次の試合でも国浜は活躍した。一本リードでまわってきた大将戦、国浜は相手の出端を捉えて小手を放った。破裂したような音が響き、出小手が決まった。国浜の一本勝ちで妙法学園の勝利が確定し、ベスト4に進出した。

試合後、すぐに国浜がやってきた。

「すごいなクニ」

「なに他人事みたいなこと言うとんねん。次はお前の番やろ」

国浜に強く肩を叩かれたことを合図に、両足で立ち上がった。捻挫直後は足の裏を地面につけるだけで足首に激痛が走ったが、今は少し和らいでいる。ただ、踏み込めば相応の痛みを味わうことにはなるだろう。なるべく足首に負担をかけないよう、静かに歩いた。

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