あの夏へ還る【第16回】(著/岩井圭也)

2021年12月11日 • お役立ち記事, 剣道小説 • Views: 939

妙法学園の先鋒は、二分と経たないうちに二本先取した。あっけないほどの勝利だった。入れ替わりに次鋒戦がはじまる。こちらの次鋒は三年生だった。努力家で、いい剣道をする同期だ。緒方先生はこの一年間、彼に次鋒を任せている。緒方先生は団体戦に出場する選手を固定したがる。順番を変えることも好まない。自分もこの二年間、大将以外のポジションで出場したことがない。

白のたすきをつけた相手校の次鋒は、事実上相手校のナンバー2だった。実力ではこちらの方が少し劣るかもしれないが、不安はなかった。

このインターハイに部員は並々ならぬ意欲を見せている。その原因が緒方先生の監督退任にあるのは明らかだった。妙法学園の教員は、還暦を迎える年度で退職することが決められている。

ひと月前のことだった。浪体大の稽古を終えて帰り支度をしている時に、緒方先生から「メシでも食って帰るか」と声をかけられた。先生から食事に誘われるのは六年間で初めてだった。

最寄り駅近くの中華料理屋で、差し向かいで夕食を食べた。学生街の定食屋らしく、大盛りが売りのようだった。ラーメンライスセットを注文すると、緒方先生は「それじゃ足りんだろ」と言い、餃子と酢豚を追加で注文した。そのくせ自分はチャーハンを半分ほど食べただけで、「あとは食え」と寄越してきた。

大量の料理をたいらげている最中、先生は茶を飲みながら話しはじめた。

「お前の母さん、未だに俺のこと恨んでんのか」

「まあ、少しは」

「ひとり息子やもんな」

先生は肩をすくめてみせた。

「お前は進路どうするんや。なんか進路相談みたいになってまうけど」

ずっと考えていたことを、おずおずと切り出してみた。

「大学に行くか、府警に行くかで迷ってるんです」

大阪府警の機動隊で剣道をすることは、小学生の頃からの夢だった。両親のことを考えると、広島に戻った方がいいのかもしれない。ただし父親からは「もうお前は広島に戻ってくるとは思ってないから」と言われていた。

「迷ってるんなら大学行った方がええで」

緒方先生が即答して、この話はおしまいになった。

先生は「やっぱりちょっとちょうだい」と言ってこちらの皿に箸を伸ばしてきた。

「来年から俺の代わりにどんな人が監督になるか、知ってるか?」

「噂では聞きました」

「高校生の情報伝達能力はすごいからなあ」

後継には警察出身の若手教員が内定している、という噂は半年前から流れていた。

「再雇用の話は、かなり前からあったんよ。お前らが中学生の頃からな」

緒方先生は独り言のように語りはじめた。

「妙法って、ぶっちゃけ剣道部以外そんなに強くないからな。結構いろいろ言われたで。生徒を見捨てるつもりですか、って詰め寄る教員もおってな。あ、一応言っとくけどこの話内緒やからな。言ったらあかんで」

「はい」

「でも死ぬまで監督続けるんもちょっとなあ。後進に道を譲るって言うんかな」

先生は感傷に浸っているようだった。そうでなければ、いち生徒である自分に個人的なことなど話さないだろう。

「教員も大変やしな。世界は狭いし」

「来年度からはどうされるんですか」

「来年度からねえ……」

餃子を噛みしめながら、先生は「どうせもうすぐバレるんやろけど」と言った。

「海外に移住しようと思ってる」

「海外?」

「多分ヨーロッパのどっか。嫁さんに、どうせ行くならヨーロッパがええわ、って言われてな」

「それは、スローライフというか」

テレビで聞きかじった言葉を口にしてみたが、先生は笑い飛ばした。

「そんなん違うよ。向こうで道場を開こうと思ってな。無駄遣いせんかったら何年かは暮らせるやろうし。うちは息子がふたりおるんやけど、どっちも賛成してくれたわ。まあ日本でできることは大体やってもうたし、これからは海外普及に努めるわ」

剣道の普及に尽くしてきた先生らしい決断だった。

「プレッシャーかける訳ちゃうけど、俺が気持ちよく海外に行けるためにもインターハイでは優勝してくれや」

元から優勝以外の目標はない。迷いなく「はい」と答えた。

次鋒を務める同期は何度か危うい場面がありながらも、粘って引き分けに持ち込んだ。選手交代の時に仲間の中堅の胴を勢いよく叩いている。任せた、という合図だ。

そろそろ面を被らなければならない。目の前の手拭いには「守破離」と書かれている。緒方先生の字だ。妙法学園の手拭いにはすべて、同じ言葉が印刷されている。

「守」は師の教えを守ること。「破」は師の教えを破り、自分の型を模索すること。「離」は師の教えから離れて、自分の心のままに道を究めること。剣道に限らず、武道や芸事に通じる教えだ。

面紐を結びながら、自分は今どの段階にいるだろうかと考えた。「守」の段階か、「破」の段階か。もしかしたら、緒方先生の教えを離れて飛び立たなければいけない日がすぐそこまで来ているのかもしれない。

 

妙法学園は危なげなく予選リーグを突破した。二校と対戦して、先鋒が一度負けただけだ。気合を入れて臨んでいるだけあって、大将戦では二度とも二本勝ちだった。

「動きすぎちゃうか?」

試合後、国浜から声をかけられた。

「明日は個人も団体も出なあかんねんから、温存しとけよ」

確かに少し動きすぎたかもしれない。勝ちの決まっている試合でも、容赦なく相手に打ち込んだ。それでも普段の稽古に比べればずっとましだ。

「大丈夫。稽古に比べたら楽勝や」

宿舎で夕食をとった後、会議室のような部屋に集められた。緒方先生は全員揃っていることを確認し、話しはじめた。

「明日は、俺が監督を務める最後の日や」

その一言で全員に緊張が走ったのがわかった。

「一、二年生は、途中で監督が変わることに納得できへんかもしれん。責任を放棄するつもりはなかったんやけど、結果的にはそういう形になってしまったことは申し訳ない」

背後で鼻水をすする音がした。先鋒の二年生だ。

「三年生は、俺と一緒に引退やな。もちろん合宿には参加してもらうけどな。君らは今まで本当によく頑張った。流した涙も、血尿も、すべて明日のためにあったと思って欲しい」

そこで緒方先生が視線を向けた。

「個人戦やけど、石坂。明日はお前の集大成を見してくれ」

「はい」

明日の試合には、これまでの剣道人生すべてを賭けるつもりだった。

「君らの試合が、俺の花道になる」

こんな時だというのに、国浜はやはりにやにやしていた。中学生の頃まではわざとやっているのだと思っていたが、本当にそういう顔のつくりらしい。一度、公式戦の後に相手選手から「自分、何にやついとんじゃ!」と凄まれたこともある。

「明日は全力で、俺の花道を作ってくれ」

「はい」

全員が口々に返事をした。

解散後、会議室を出ていく先生の背中を見送った。小学生の頃はとてつもなく大きかった背中が、今は小さく見える。自分が大きくなったのだろうか、それとも先生が小さくなったのか。両方なのかもしれない。

その夜は竹刀と防具の手入れをして、眠りについた。最終日は個人団体の両方で決勝戦まで勝ち進んだ場合、一日で七試合をこなすことになる。当然、七試合分の準備をして臨むつもりだった。

翌朝は五時に目覚めた。上体を起こすと、壁に立てかけてあった竹刀が倒れているのが目に入った。縁起を担ぐタイプではないが、何となく嫌な予感がした。ベッドから抜け出て、竹刀を再び壁に寄りかからせる。朝食を済ませて部屋に戻ると、また竹刀が倒れていた。自分が少し苛立っていることを自覚して、「落ちつけ」と声に出して言い聞かせた。

ホテルで道着に着替えて、タクシーで体育館へ向かう。車中、隣には国浜が座った。

「珍しいな。緊張してるんか?」

国浜は気を遣う素振りもない。

「剣道サイボーグやろ。しっかりしろや」

ポーカーフェイスの自分につけられた二つ名は、いつもはあまり好きではなかった。しかしこの時ばかりは、剣道サイボーグ、という言葉を頼もしく感じた。そうだ、俺はサイボーグなんだ。人間じゃないんだから、思い悩むこともない。

体育館でアップを済ませた後はすぐに個人戦がはじまる。試合前、先生に呼ばれた。

「俺は監督として数え切れんほど全国大会に出場してきたし、入賞も経験してきた。それは全部、俺の指導が優れているからやと思ってた」

いきなり何を言い出すのか。先生は試合直前の時間を惜しむように、早口で話した。

「でもお前に関しては、俺が連れてきたんやなくて、連れてきてもらったと思ってる。そんな生徒はお前が最初で最後や」

先生は試合までの時間を気にしながら更に話し続けた。

「今までも、お前より才能のある選手はいっぱいおった。でも結局、そいつらは石坂翔にはなれんかった。何が違いかわかるか。そいつらは剣道がなくても生きていけるけど、お前には剣道がないと生きていかれへん。それが違いや」

女子個人準々決勝が終わった。

「普通にやれば絶対に優勝できる。平常心やぞ」

緒方先生の眼はいつになく優しかった。それは、先生が監督を務める最後の日だということと無関係ではないように思えた。

「はい」

短く答えて、準々決勝に臨んだ。

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